見附島に初対面‥
見附島(=見付島 みつけ島)は周囲450m、高さ30m、渚から200m程沖合いにある離れ小島です。歩いて近づけるよう大き目の踏石を首尾よく 並べてあります( 踏石の写真を見る)。左方に 文字通りの小島を携え鳥居を配置してあります。島上に黒松、牡松、楢、栗、楓、椿などが分布しており、大量の烏や鵜、鴎の絶好のねぐらとなっています。波浪風雨による侵食が激しく岩盤が年々削り落とされています。
ここ見附島海岸一帯は能登半島国定公園(*)に指定されています。直ぐ近くに無料駐車場(約200台、含大型車10台)やキャンプ場( 有料、オートキャンプも可能)、グランドゴルフやゲートボールコート、テニスコート、 サイクリングロード、遊歩道があります。1000本超の松や桜が植えられてベンチのある芝の園地 は憩いの場を提供しています。またジャングルジムや滑り台などの子ども用の遊具も設置され楽しい時間を過ごすことが出来るようになっています。
近くには国民宿舎と民宿、軽食堂売店があり、磯釣りや船釣りは勿論のこと特に夏には海水浴場として賑わいます。
晴れて澄んだ日には水平線上に北アルプスの連山がクッキリ映えます。
その名称から特に若者に人気を呼ぶ「恋路海岸/弁天島」は、ここから磯伝いで3km程南方に見えます。その間を縁結びーちと名付けたそうです。太陽は海から昇り
後の山に沈みます。
(*)1968年指定。 石川県4市12町及び富山県2市を含む総面積約9800ha、海岸線延長約370km。
見附島にアクセス
<<見附島アクセス地図google>>2003年7月7日(七夕)に能登空港開港。羽田定期便ANK2往復が運行されている。
チャーター便も増えている。ここから見附島まで車で30分余りだ。
大型バスには朗報です。
アクセス道路が完成。国道249号線から見附島へのアクセスが 便利になりました。
能登空港または狼煙飯田方面から大規模珠洲道路⇒R249(上下とも)を利用した場合は、 見附島西口より折れて見附島までアクセス道路=新バイパスを走ります(下図で赤色 線部分2011年完成)。
なお従来のように、金峰寺交差点から折れて、鵜飼交差点、見附島口交差点へと市街地を経由しても結構です。
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見附島に再会‥
一帯の海岸は土地の沈降隆起が穏やかで特に左方に遠浅の砂浜が数10kmにわたって長く続きます。 ここは海岸段丘群が発達したもので日本海側で有数のものと学会で認められているようです。昔から長浜あるいは長浜の浦と呼ばれ親しまれ歌われてきました。 半島北部の荒々しい男性的(?)な外浦岩石海岸と区別して、ここ内浦は女性的(?)な内浦側の景観の象徴的存在です。
見付島は第3期珪藻泥岩から出来ており陽光を浴びて白亜あるいは黄金に輝く奇岩と云えます。珪藻土はここら奥能登の一部に豊富に埋蔵しており、 層の厚さは最大の処で400mと推定されます。これを活用した地場産業で特産品製造が盛んです。
見附島の中腹辺りに帯状の層がほぼ水平に連なっています。ここから左方1km程に谷崎と云う小鼻が見え ますが、ここも珪藻泥岩で出来ており露出部を見ると見附島と酷似しています。昔は付近の海岸線一帯が陸続きであったのが、何かの理由で途中が海中に陥没したとみられます。定説 かどうか定かではありません。
後を振り返ると奥能登(北部)で最高峰の宝立山(471m)系が囲むようにゆっくりと連なり、その山麓に横穴古墳群や高塚古墳群が数多く分布しています 12世紀頃に始まった珠洲窯と呼ぶ古窯群があり甕、壷、鉢などが出ています。貝類や植物の化石群も見つかっています。また4〜5千年前の 多数の縄文遺跡が見つかり石器や土器が発掘されており、考古学上も注目されています。
2011年6月に見附島を含む能登半島の4市4町が能登の里山・里海として世界農業遺産に登録されました。 能登半島は世界に誇れる農業的歴史を持った地域であり、農耕、祭礼、風習、慣習、伝統文化が現在も残っていることから、 里山里海として豊かな自然や文化が一体で評価されたということです。
このような地形的かつ歴史的状況を補完するため、見附島から比較的短時間で行ける名所旧跡を紹介しました。2度目以降の訪問に利用できるでしょうか。
見付島からアクセスできる名所旧跡シリーズ
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見附島の頂上へ上る !?
沖合い200m程の本島まで靴履きのまま踏石を渡って行き近寄って仰ぎ見ることが出来ます。モチロン無人島であり、何人も登頂することは出来ません。 登頂禁止の立看板などは近くに見掛けないと思いますが、チャレンジしたと云う噺は聴いたこともありません。岩壁がもろく泥岩もろとも崩れ落ちて しまうのでロッククライミングの得意な人にも無理でしょう(無謀な試みはいけませんネ)。
幸か不幸か担当子は昔むかしのコウ顔のビ少年時代19××年4月の安全/大漁祈願の春祭に、地元の皆さんと一緒に乗船して見附島頂上へ登っ た経験が一度あります。古ぼけた祠社が置いてありました。多数の樹木が茂っていました。落葉と鳥の糞チが散在していました。これだけ広ければ木を 伐採したらサッカーや野球も出来ると思った記憶があります。
その後能登沖地震(1993年:震度5.5M)や大型台風などにも見舞われ岩石や樹木が落下したりして、見附島も激しく変貌し大きさ加減も激減しており、沈没するの も時間の問題という気がします。 このことについては下方別項にポイント図解をしてもっと詳しく載せています。
見附島の名の由来‥
その1. 弘法大師の命名説
弘法大師(空海)が能登半島へ渡航の際に見付けられて見附島と名付けられた。
弘法大師が何故に能登へ来訪したのかと云うことについて、ここから3km程の距離の丘陵にある真言宗の古刹=吼木山(ほえ
ぎざん)法住寺の開基伝承が興味深い。
9世紀初め、弘法大師は唐の高僧から授かった密教伝来の三杵(さんしょ)を捜して、佐渡の方より能登半島沖を通りかかると、御経の誦唱の音が聴こえて来た 。沖合200m程の海上に浮ぶ小島を頼りに上陸した。村人の案内で行って見ると山上の桜の木に三杵の一つが輝いており、桜の木が枝を震わせて法華経を唱えていた。喜んだ大師はここに寺を創建し 山号を吼木山と、寺号を法住寺と名付けた。小島は見附島と名付けられ、桜の木は啼き桜(ナキザクラ)として何代目かが残っているそうです。
弘法大師と三杵(五鈷、三鈷、独鈷)に関する寺伝は概略次のようなものです。
大師は入唐して高僧恵果阿闍梨(けいかあじゃり)のもとで密教の修行をしました。 たちまちにして才能を認められた大師は阿闍梨から密教衣鉢(いはつ)を受け継ぎ、宗祖伝来の三杵を授かります。帰国しようとしたとき、妬んだ唐の弟子達が三杵を奪い返しに追ってきます。 大師は遥か東方の空へ三杵を投げ上げます。帰国した大師は飛行した三杵を捜して諸国を歴訪するのですが、三鈷杵は高野山に、独鈷杵は佐渡に、そしてついに五鈷杵は能登の桜の木にかかっていたと云うことです。
その2. 皇子加志波良比古命の命名説
8世紀頃崇神天皇の皇子加志波良比古命が都から奥能登橿原(カシハラ)へご降臨の際に、海上から見付けられ見附島と名付けられた。
<軍艦島>島全体の形が戦艦に似ている。或いは陸上至近距離から見たその形が艦首に似ている。そのような理由で物騒にも俗称軍艦島と
云います
。 他県にも軍艦島なる呼称の島が幾つかあるようですが。
ご利益(いいこと)があるかも‥
頂上に小さな祠があり弁齋天を祭ると史料にあり、現今は見附神社を置くといわれています。 また12薬師仏胴を祭ったり虚空蔵菩薩木像を祭ったりしたが何故かいつも佐渡の人に盗まれたと言う伝えが記載されています。
北前船の時代になると佐渡は文献にはっきり出てきますが、それ以前の能登と佐渡の関係 は不明のようです。頂上に祠社を置き海上に鳥居を配置してあることからも分かるように、遠い昔から地元民とりわけ漁業関係者には見附島は格別神聖なものであったと思われます。そして見附島住吉神社春祭 (島祭りなどとも云った)なるものを大々的に実施しておりました。毎年4月18日に大漁旗を立て思いきり化粧した大小の船を島の周囲に繰り出して 、賑やかに太鼓を打ち鳴らしました。更には島上に登って祝詞を奉じ、海の安全と大漁祈願する慣わしが最近まで続いていたのです。現在はこの行事は随分縮小され、春祭 りには向正面の陸上へ移転した祠社の前で地元氏子代表が集まり祝詞を奉じるだけになっています。
歌 一 首
『珠洲郡より船だちして治郡(布)に還りし時に、
長浜の浦(*湾)に泊てて月光を仰ぎ見て作る歌一首
珠洲の海に朝びらきして漕ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり
上の件の歌詞は、春の出挙に依りて諸郡を巡行するに、当時当所にして属目して作れり。
大伴宿禰家持 』
万葉集4029
珠洲能宇美爾安佐比良伎之底許芸久礼婆
奈我波麻能宇良爾都奇底理爾家里
*「長浜の浦」は諸説あり不詳地
見附島の人気度
- 19××年 △△観光ポスターの部で見付島が全国制覇! 奇岩として一躍名を轟かす。
- 199×年 全国△△アンケートの部 能登半島で最も印象に残った名所は?
見附島が圧勝。 - 199×年 清流調査:能登半島の旅館/ホテルの案内パンフで最頻する観光名所は?
トップが見附島。次点は?!(云わぬが花) - 東京の幾つもの銭湯に見附島が描かれている!(中島画伯制作) 捜せば銭湯以外にもある話。
見附島を訪れるなら今のうちかも‥
1930年代(戦前)と現在の写真を比較する
お宝写真をご覧頂きたい。ここには戦前の、つまり80年程前の見附島が映っています が現在のものと較べると、容貌が大きく変わっていることに気付かれるであろう。ズバリ貧弱になっています。 最大のジリ貧は本体が痩せこけて頭のものも薄くなっていることです。
この様子は次の図式で解説してみました。その次のジリ貧は見附島(本体)に仕えている小島(沖に向って左方に見える)が、
今や海の中に沈みかけていることでしょう。
そう云えば見附島を撮ると数十年前は見附島の正面写真には左側に小島が入っていたものですが、
ホームページにみる近頃の旅行者の寄稿写真には小島に無頓着なのが多くなった気がします。
地元や有識者、行政で見附島や見附海岸の保存策について何度か話し合われました。
コンクリートを吹き付け岩盤の落盤を防げばどうかなど、
もっともらしい意見が出たりしたが自然の波浪風雨のなすままで現在に至っています。従って出来るだけ威勢のいい見附島を
背景にして写真を撮りたければ訪問は早い方がいい理由(註:タイトル)です。
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見附島の南側横面の変化 (=恋路海岸方面から眺める) |
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見附島の正面やや左側の変化 (=踏石を渡り近寄って仰ぎ見る) |
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<資料として主に珠洲市史を参照>
大きな人口踏石(岩)が渚から見附島まで約200m敷き詰められています。珪藻泥岩の大きな砕石でゴツゴツした感がしますが、
安定しており歩いて渡ることが出来ます。
是非渡って行き見附島を近くから仰ぎ見てください。
(写真下)
途中に見附島まで残り20m程という付近の踏石を取っ払ってあります。海水に浸からないとこれから先に進めません。
残念ですが‥






