裕さん、 久しぶりの情報局です。

今更、二条城って感じですが、今回は二条城の気分でレポートします。
小学生の頃擬人化して書いたのを思い出しますね。

私は二条城
2003年に400歳を迎えました。
元はと言えば朝廷のお遊び場所、神泉苑の敷地に生まれました。

この地に家康様の命を受け、誕生した私の歴史をここだけの話として、
お話致しましょう。

徳川、宮内庁、と次々に旦那が替わりました。
今は京都市にお世話になっております。

何でも、国宝やの、ユネスコ世界遺産と言われても、よく分かりません。

三河の徳川組と大阪の豊臣連合の抗争で、
優位に立った家康組長が関ヶ原戦争後、大坂抗争の拠点、
総本山の朝廷に近づくにも絶好の場所として、この地に建てられました。

豊臣連合最高幹部の加藤清正が抗争終結、和睦で淀君を説得し、
秀頼を連れ私の元に訪れた後、急死した話は色々言いたいのですが、
今は お話することは出来ません。

この後、家康の悲願朝廷との婚因関係!
二代目組長秀忠の娘を後水尾天皇の元に入内!!
後にその娘が女帝となりました。

そんな親戚関係で御所から、後水尾天皇がお越しの際は
それはスゴイ行列イベントでした。
天皇自ら、お足を運んで頂けるのですから。

そんな優雅な私も天災には勝てません。
何故か、何も無い所に少々高い私、雷には随分苦労しました。
五層建ての格好ばかりの天守閣は落雷で消滅。
今では避雷針だらけの、私です
どうやら、朝廷の心の中の怒りが私に向けられたのか?
今でも、避雷針はいっぱい付けさされております。

最後のお仕事は大政奉還と言う、組解散の幹部会議を見ました。
なにぶん、全国組織なので、末端までに届かず長引いた様子です。

今のところは平穏な私、でも、もし、有事となれば、
緊急滑走路に出来る御池通りのすぐ側、ああ恐ろしい事を考えました。
そのようにならぬよう願います。
私はご大層な観光寺院が門を閉めていても、いつでも皆様をお迎えしております。
市営ですので・・・












京都在住のろんろさんから説明文と写真を送って頂きました。
どうも有難う御座います。
m(_ _)m

更新2003/11/20日
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