このコーナーは東洋の古典から神髄部分を抜き出し、現実生活の指針として役立てようと思い開設しました。



教師説 『つらつらふみ・君の巻』  細井平州 1


「平生躬行正しと申す内にも生まれつき窮屈片気なる人は人の師には致し難し。
人の子を教育するは菊好きの菊を作る様にはすまじく、百姓の菜大根をつくる様にすべきこと。百姓の菜大根を作るには一本一株も大切にし、上出来も、へぼも、よきも、わるきも、食用にたてること。
知愚、才不才、それぞれ畢竟よき人にさえできれば宜し。」

 細井平州は江戸時代中期の米沢藩(今の山形県)主、上杉鷹山が師と仰いだ儒学者である。平州自身は尾州藩の徳川宗睦に重用され、社会教育に破天荒な感化を与えた人物であり、今の愛知県知多郡平島の出身である。上杉鷹山は倒産寸前の米沢藩を見事に甦らせた名君であるが、ことのほか人間教育に力を尽くした。彼が建てた藩の学問所『興嬢館』の待講として招待されたのが平州である。
 実はこの菊作りと菜大根作りの一説は、彼の弟子の渋井大室の持論で、平州は弟子の感化を受けたわけである。訳せば…
 いつも体で正しく実行する人でも、偏屈な人は人間を教育する師にさせるべきではない、と手厳しい。菊というものは自分の好みに合うように丹精して特殊な花を咲かせ、自分の気に入らんものは全部捨ててしまう。すなわち名人や特別な者を教育する方法で、菜っ葉大根を作る者はこれに反してどんなものでも良い。大小不揃いそんなことはどうでもよい。一本一本を大切にし、うまく作って食えさえすればよい。これが真の教育であり政治なんだと…。
 同じように荻生徂徠はこう言っている。「豆はいつまでも豆、米はいつまでも米で、豆は豆らしく米は米らしく育つべきもので、米を豆にしようと思ったり、豆が米になろうとするのはとんでもないことだ」と。
 つまり彼らの人間教育における考え方の根本は、『人情が満足するように教える』『天性を致す』ということであり、非常に公平で寛大で自由な教育方針である。成績第一主義の世の親・教師に聞かせてやりたい先達の言葉である。