風そよぐ          
西山清物語













プロローグ

マンツーマンのディフェンスをかわした瞬間、西山清の体が宙高く舞った。
立ちはだかるキーパーの足元に、わずかなスキが…。振り上げた右腕が鋭くし
なる。放たれたミドルシュートは、うなりを上げてゴールネットに突き刺さっ
た。響きわたる歓声。無数のフラッシュ。選手生活12年目で頂点を極めた男
は、右手を大きく挙げてこれにこたえた。
昨年6月、福岡市の福岡市民体育館。第18回日本ハンドボールリーグ開幕
直後の日新製鋼×三陽商会戦は異様な熱気に包まれていた。日新製鋼のエース・
西山は、この日まで通算608得点。蒲生晴明の持つ日本記録611点にあと
3点と迫っていた。
蒲生晴明。大同特殊鋼の主砲として君臨し、現在は全日本の監督を務める偉
大なプレーヤーは、西山がハンドボールの門をたたいた当時から、雲の上の存
在だった。「世界に通じる唯一の日本選手」が6年前に打ち立てた金字塔は、
西山を除く他の選手には150点以上も差をつける孤高の記録。プロ野球・王
貞治のホームラン数にも例えられる。
その蒲生を超える−。大記録を期待するチームメイトに、西山は試合前のミ
ーティングで、言い切った。
「今日は勝負に出る」試合開始。ところが、西山は最初のシュートを決めた後、
2本続けてミスを犯す。キーパーのマークを外しているにもかかわらず、ボー
ルは2本ともゴールポストに当って跳ね返っていた。「自滅だな」ハーフタイ
ムの間、西山はあえて自らにプレッシャーをかけ続けた。「仲間にこれ以上、
負担をかけさせるわけにはいかない。この試合で決める」
試合再開。思いをくんだチームメートは、ゴール前で次々にチャンスボール
を西山に回した。立て続けに2本のシュート。そしてクライマックスは間もな
くやってきた。後半6分、相手パスを奪った3年目の新鋭・林昌英から絶好の
パスが渡った。抜群の跳躍力を生かした長い滞空時間で相手のタイミングを外
し、腕を思いっきり振り切ってゴール左隅に。
メモリアルシュートは、「引っ張りの西山」と呼ばれる彼がこだわり続けた、
「左隅の美学」をそのまま体現したものだった。
自分の力だけではない。612という数字は、チーム全員で勝ち取ったもの
だ。西山は、手渡された花束を握り締めながら、感謝の思いに浸った。
氷見市立西部中2年の時にハンドを始めてから20年。走り続けた一筋の道
に、何の悔いも無い。2ヶ月前に監督兼任となったけん引者の偉業は、チーム
を勢いづかせた。
この試合、三陽商会を25×21でで下しただけでなく、その後も連勝街道
を突き進む。そして、3年連続リーグ2位に甘んじたチームは、宿敵湧永製薬
をプレーオフで破り、念願のリーグ初優勝。西山も自己の通算得点を624点
にまで伸ばしていた。

挫折からの出発

それは一瞬の出来事だった。鉄棒の大回転。大きく舞い上がった西山の体が
支えを失い、頭から硬い床に落下していった。棒の高さ2.50m、遠心力で
加速されたスピード。なすすべはなかった。無意識に両ひじで体をかばう。そ
のひじから、しびれが全身に走る。
昭和47年。氷見市立西部中体操部員として初めての夏に、運命を変える事
故は、起きた。左のひじが盛り上がっていた。すぐに病院へ。診断は、左腕骨
折。しかし、事故から10日もたつと、今度は右腕も痛みだした。骨が欠けて
いたのだ。治療の遅れた右腕は、もう真っすぐに伸びなくなっていた。
それでも西山はめげなかった。「これぐらいで負けたくない」。約1ヶ月後、
レギュラーの座をとり、秋の県新人団体戦で優勝、個人の跳馬では3位に食い
込んだ。が、体の線の美しさが大切な体操で、曲がったままの右腕は、致命傷
だった。
2年生の12月、西山は体操をあきらめる。期を同じくして、ハンドボール
部が創部された。見たこともないスポーツだったが、小学校時代ソフトボール
部の主将を務めた彼にとって球技は魅力だった。友人の誘いを機に踏み出した
一歩は、世界に通じる階段であることを、少年は知るよしもない。
体操で鍛えた柔軟な体と、天性の運動神経は、未知のスポーツでも瞬く間に
その素質を開花させる。3年生の7月、県中学選手権初優勝は、ほんのプロロ
ーグに過ぎなかった。
翌年入学した氷見高校には"地獄の特訓"が待っていた。部の顧問は、元全日
本の主将・金原至。昭和33年の富山国体で、監督として県勢を優勝させるな
ど、富山のハンドボールを全国区にした立役者だ。金原の指導は峻烈(しゅん
れつ)を極めていた。雨だろうと雪だろうと練習は屋外。夜はボールに石灰を
塗って練習を続ける。足の指を鍛えるため学校周辺の朝日山の砂利道をはだし
で走る。脱落する部員も相次ぐ。しかし、西山は3年間、一度も練習を休まな
かった。それだけではない。実家から高校までのアップダウンの激しい十数キ
ロを、バスを横目に毎日、自転車で通学。授業中でも、テニスボールを握って
はつぶし握力を鍛えた。
「お前、人間ではないな」。金原に舌を巻かせた西山の執念は、着実に道を
切り開く。2年、3年とインターハイで連続準優勝。そして3年の青森国体で
優勝にたどり着く。金原は、首をひねった。西山のシュートの球速は超高校級
だった。ただ、全国にはその程度は何人もいる。不思議なのは、どんな優れた
キーパーも、西山にかかるといとも簡単にガードを破られるのだった。
「練習だけでは決して得られない名にかを、こいつは持っている。いつか必
ず日本のエースになれる」杉林に囲まれた県境の小さな集落・氷見市熊無地区
で、農作業にいそしむ母親の姿を追いながら育った少年は、新たな夢に向って
旅立つ。
体操での挫折、恩師との出会い、歯を食いしばった練習のつらさ、仲間と分
かち合った優勝の喜び。古里で得た18年の忘れえぬ思いを胸に、西山は筑波
大行きの列車に乗った。

得点王対決

筑波大に入学した西山は、瞬く間に関東学生リーグのエースとなった。2年
生の昭和54年から3年連続得点王。フランスでひらかれた世界学生選手権で
も得点王に輝く。
その秘密は彼の強じんな筋力と卓越した判断力にあった。ボールを抱えて舞
い上がった西山は、いつまでも宙にとどまる。相手ディフェンスが耐えきれず
にフィールドに落ちたころ、シュートを繰り出す。キーパーのタイミングも、
空中で体を移動させることによって外す。まさに変幻自在だった。
この独特の技の裏に、そびえ立つ蒲生晴明の姿があった。当時大同特殊鋼に
入社していた蒲生は、1年目から4年連続で日本リーグ得点王となり、チーム
を5連覇に導いた。伸長192cm、体重90kgと、日本人離れした体格か
ら放たれるシュートは、怒涛の勢いでディフェンスをけ散らした。
「とても蒲生さんのまねは出来ない。違う道は無いものか」。それが持ち前
のバネの強化だった。弁慶より牛若丸。剛には柔。西山の進む方向は一つしか
ない。立場は違うものの、ほぼ同時期に、2人はトッププレーヤーの名声をほ
しいままにした。しかし、同じフィールドに立った時、「得点王」は1人でし
かない。
 昭和57年6月。十社近くの誘いの中から日新製鋼を選んだ西山は、日本リ
ーグデビュー戦を迎える。相手はくしくも、蒲生率いる大同特殊鋼。
西山は武者震いを覚えた。学生時代の数多くの栄光がどこまで実業団で通用
するか。しかも蒲生の前で。
 しかし、大同の野田清監督は非常な司令を出していた。西山にボールを渡す
な。マンツーマンだ。接触プレーが許されているハンドボールでマンツーマン
ディフェンスは、選手の動きを完ぺきに封じてしまう。試合開始と同時に、愛
知県体育館を埋め尽くした観衆がどよめいた。大学出たての"青二才"にマンツ
ーマンか−。
「天下の大同がオレなんかに」。戸惑いの中で60分は過ぎ、西山はわずか
3得点だけ。蒲生は8得点、チームは14−22で完敗し、屈辱だけが残った。
「このままでは終わらない。いつかきっと、蒲生さんの前で決めてやる」。こ
の日は〈雲の上の存在〉が、「目標」から「ライバル」に変わった初めての日
だった。
11月3日、リーグ後半戦で両雄は再び再び相まみえる。だが、蒲生の爆発
力の前に、チームは17−20でまたも敗れる。しかし、西山はこの試合で、
12年たった今でも破られていない記録を打ち立てている。個人1試合連続8
得点。ひそかな手応えを、西山は感じ取った。
注目は、一躍西山に集まった。年間通算72得点。デビュー初年にいきなり
蒲生と同点のリーグ得点王をつかみみ取ったのだ。
高まる「蒲生二世」の声。しかし西山は「僕はあくまで西山一世」と言い続
けた。翌年も連続でリーグ得点王を獲得。「世界に通じるプレーヤー」への階
段を駆け上る。

無常の夢

タイムアップの笛が、三千人の観衆で埋まった東京・駒沢体育館に鳴り響く。
5色のテープが舞う中、日の丸の旗を掲げ、満面笑みの選手たちが場内を駆け
巡る。昭和58年11月21日、ロサンゼルスオリンピックを1年後に控えたアジア
予選最終日。 日本は中国を27−20で下す。優勝候補と目された韓国を、
同率ながら得失点差で抑え、ロスへの切符を手にした。
ヒーローはもちろん、西山だ。予戦6試合で計52得点をあげ、アジアトッ
プの成績。国際ハンドボール協会技術委員会のメンバーも、「西山の手首の強
さは、世界でもトップクラス」と絶賛した。面白いようにゴールが決まる。今、
オレのシュートを止められる者は、だれもいない。
そして1年後、西山は世界のひのき舞台に立つ。世界選手権など国際試合の
経験はあるが、やはりオリンピックは格別。そこで勝つことは彼の「究極の夢」
だった。
しかし、ロスに到着したころから、予選で痛めた左ひざがうずいた。痛みは
日に日に増し、これをかばうために利き腕の右肩に負担がかかる。彼だけが極
めた、並外れた滞空時間とバランス。それが出来ない。シュートミスが多くな
っていた。
つらい本番だった。気持ちとはかけ離れて二流選手ほどにしか動かない体。
あせるほど外れるシュート。エースの低迷に比例して、日本はスイス、アイス
ランド、ユーゴスラビア、ルーマニアにことごとく惨敗。唯一、アルジェリア
に辛勝したものの、メダルはおろか、入賞にも届かない10位に終わった。
しかし、西山はめげなかった。まだこの次がある。けがが治れば、勝つ自信は
ある。
4年後の昭和63年、再び世界の壁に挑戦する。ソウルオリンピック。この
時、西山29才。これを最後に、ナショナルチームからは引退する決意をして
いた。
西山の活躍で、日本はヨルダンで行われたアジア予選を通過。満を持してソ
ウルへと向う。この時、西山にもう一つの目標があった。国際公式戦百試合出
場−。ソウルで6試合に出場すると、ちょうど百試合になるのだ。日本人では、
これまで蒲生を含めて2人だけが到達している。
しかし、またしても、大舞台で、西山は崩れてしまう。「力み過ぎた」エー
スは、世界の壁に、次々にシュートを阻まれる。
連敗に次ぐ連敗。あと2試合で百試合達成というチェコ戦には、ついにベン
チからも外されてしまう。西山は観客席で、唇をかんだ。「もう一度試合に出
させて欲しい」思いはかなわなかった。西山の国際公式戦出場は、98試合で
ストップ。彼の国際公式戦総得点も、399点で終止符を打った。
日本ハンドボール界に旋風を巻き起こした男が味わう、初めての挫折。これ
が限界なのか。夢は無残に砕け散り、ぽっかり空いた心のすき間に、涙の雨だ
けが降り続いた。
西山は帰国後、1ヵ月間、ボールに触ろうともしなかった。

新たな出発

ソウルから帰国して1ヶ月後の昭和63年10月、第13回日本リーグが開
幕する。傷心の西山は「頭の中が空っぽ」の状態で、シュートを打ち続けた。
が、終わってみれば、三たび得点王の坐に。その実力はやはり国内では無比。
しかし、チームはこの年も4位に終わる。優勝経験はない。
それから5年後の平成5年春。日新製鋼呉体育館に、一際大きく西山の声が
響く。時には腕組みのまま、時には自らボールを追いかけて部員を叱咤(しっ
た)激励する、監督兼プレーヤー・西山が誕生したのだ。
進んで選んだ道ではなかった。フットワークや跳躍力には、まだ自信がある。
「体が動かなくなるまでは選手一本で行きたい」。だが、チームは3年連続リ
ーグ2位。どうしてもあと一歩の壁が、越えられない。「悲願達成には、君の
卓越したプレーの伝授と指導力の全開しかない」。フロントの説得の末、西山
は戸惑いながらも監督兼任を決意した。
目標はただ一つ、日本リーグ初優勝。西山が目指したのは「意識改革」だっ
た。「甘えは許されない」。それは、月明かりの下で石灰を塗ったボールを泥
まみれで追いかけた少年時代から、西山自身が実践してきた〈哲学〉でもあっ
た。基本練習の徹底した反復と習得。中途半端なプレーには容赦なく声が飛ぶ。
「少しでもうまくなろうという気持ちを持て」
一方で、部員の悩みには何でも相談に乗った。もちろん、試合では常に先頭
に立つ。「頼りになる兄貴分」(堀田幸夫主将)は27人の部員を従えて1993
年11月28日、プレーオフ戦で湧永製薬を23−18で破り、念願の初優勝
を達成した。苦渋の選択は、間違っていなかった。
指導者としての出発は、仕事の面でも始まった。入社以来、経理、人事畑を
歩んできた西山だが、監督就任と期を同じくして、安全衛生課の保健衛生係長
に昇格。筑波時代に学んだ運動生理学を生かせる職場で、11人の部下に指示
を与え、3人の医師と連携することになった。
関連、協力会社を含めて5千人に上る従業員の健康管理や、作業環境の改善
に取組む仕事の責任は重い。ハンドボール以外に、これほど真剣に取組んだこ
とはない。充実感に満ちた毎日を送る西山。しかし、周囲はさらに"要求"を重
ねる。「そろそろ身を固めろよ」「心地よい寮生活に慣れたからなぁ。ぼちぼ
ちね」私生活での新たな出発は、まだこれからだ。
1994年1月、父・弘が肝不全で逝った。口数が少なく、大学進学の時も、
「思うようにやれ。他人に迷惑はかけるな」とだけ言って筑波へ送り出してく
れた父。その葬儀の際「私は一人でも大丈夫。お前は好きな道を歩め」と励ま
してくれた母。そんな両親と、ハンドボールの魅力を教えてくれた郷土・氷見
の恩師たちが、今の自分を支えてくれている。
瀬戸内海の海を望みながら、西山は郷里での思い出を数えた


《1994年5月読売新聞より抜粋》