心に残る文章


          改革に挑む捨て身の異端者


    小泉純一郎氏が自民党総裁になってからというもの、国会中継を見るのが楽しみに    なってきた。これまでの原稿読み上げ答弁ではなく、自らの考えをストレートに野党    議員にぶつけていく。     視点が徹底して国民サイドにあり、腹がすわっているから野党の野次にも意地悪な    質問にもまったく動じない。胸のすくような快答もよく見かける。     ハンセン氏病訴訟の控訴断念という政策についても、国の体面にとらわれず、「人    間の尊厳」を守ることを選んだと言える。言葉では言い表せないくらい多くの抵抗が    あったと思われるが、日頃から主張する通り「恐れず、ひるまず、とらわれず」自ら    信ずるところに従った。  
    国会の所信表明演説の最後でこう結んでいる。『明治初期、厳しい窮乏の中にあっ    た長岡藩に、救援のための米百俵が届けられました。米百俵は、当座をしのぐために    使ったのでは数日でなくなってしまいます。しかし、当時の指導者は、百俵を将来の    千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。    その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。    今の痛みに耐えて明日を良くしようという「米百俵の精神」こそ、改革を進めようと    する今日の我々に必要ではないでしょうか。     新世紀を迎え、日本が希望に満ち溢れた未来を創造できるか否かは、国民一人ひと    りの、改革に立ち向かう志と決意にかかっています。     私は、この内閣において、「聖域なき構造改革」に取り組みます。私は、自らを律    し、一身を投げ出し、日本国総理大臣の職責を果たすべく、全力を尽くす覚悟であり    ます。議員諸君も、「変革の時代の風」を真摯に受け止め、信頼ある政治活動に、共    に邁進しようではありませんか。     国民並びに議員各位の御理解と御協力を心からお願い申し上げます。』     その小泉氏を日経新聞の記者が「捨て身の異端者」と評し、期待を寄せた文章があ    る。    「命を捨てる」言葉で言うのはたやすいが、常人にできることではない。この新聞記    事は、まさしくそれを実践する小泉氏の考え方をうまく表現していると思うので、こ    こに紹介してみる。     「おもしろきこともなき世をおもしろく」。辞世をここまでしたためたところで、    病床の高杉普作は筆を落とした。    付き添っていた女流歌人、野村望東尼は「すみなすものは心なりけり」と書き添えた。     高杉は下の句で何を言おうとしたのだろう。享年二十七。    高杉の倒幕のエネルギーがなければ、日本の近代史は違うものになっていたはずだ。    昨年、幕末の人物論を交わしたとき、小泉純一郎氏は「好きなのは断然、高杉普作」    と言った。細面の顔つきも切れ上がった目も、そういえば似ている、と思った。     それよりも、破天荒な性格、命を惜しまぬ大胆さ、そして幾分、情緒的な趣味が似て    いると感じた。破壊者高杉に、最大派閥が支配する日本の政治構造を変えようとする自    分を重ねているのではないか、と気がついたのは、ごく最近のことである。     このごろこれにはまってしまって、と送ってくれたCDが、「荒野の用心棒」や「夕    陽のガンマン」などのイタリアの作曲家エンリオ・モリコーネのアルバムだった。    ドラマチックで詩情あふるる曲である。レクイレム(鎮魂曲)ならフランスのフォーレ    が一番。自分が死ぬときはこの曲だ、と言った。     派閥政治を駆逐する、その政治の話をしたことはあまりない。音楽、映画、歴史小説、    歌舞伎。不思議なことにそのほうがどういう人間だかがよくわかる。言葉はいつも短い。    「そう」 「違う」。政治につきものの建前と本根の使い分けなどない。だから政治家    と話しているという気がしない。     総裁選出馬を決意する前、政治の話をした。いま何が欠けているか、と聞かれたので    「政治指導者の命を捨てる覚悟」と答えた。改革ができるのは異端者。気骨あるアウト    サイダーでなければできない、と上杉鷹山と日産自動車のカルロス・ゴーン氏の例を出    した。こぶしを握って唇をかむようにしていた。     その人物が一ヵ月もしないうちに、国家運営の最高指導者になるなどと夢想だにしな    かった。不明を恥じるしかない。徳川幕府が倒れることをかつて予測できなかったよう    に、歴史は動き始めるとどう転がるかわからない。     間違いなく日本政界の異端者である小泉氏は、自民党三役・内閣人事で既成の秩序を    ぶち壊した。こうすることが理想だと思ってはいても、永田町にかかわりのある人で現    実に可能だと思った人はそうはいないだろう。     派閥政治を駆逐する、そのことを目標に掲げ、人事で実践した意義は大きい。これだ    けでも小泉氏が政権の座についた意味がある。一匹オオカミの小泉氏は、過去の政治行    動を見ても、また性格からいっても、どこか「テロリスト」的ムードが漂う。テロリス    トは心を明かさない。テロリストは弁解もしない。破壊の爆発力がすごければすごいほ    ど、それにくらべて創造の力は平凡なものになりがちだ。希代の破壊者西郷隆盛がそれ    を証明している。     新しい秩序の創造は、かなり強力な内閣の総合力で立ち向かえばいい。英知を積み上    げて出てきた選択肢を最終決断するのが政治指導者の任務である。頑固な人だけに自説    にこだわるあまり、国をあやまるようなことだけはしてほしくない。     リンカーンもチャーチルも、そしてケネディもレーガンも、政策に精通しているわけ    ではなかった。総合力を引き出すことこそ政治指導者の仕事である。異端者はいつまで    も異端者であってほしい。いたずらに妥協に走れば、たちまち国民の心は離れていく。     「命を捨ててみたら」と生意気なことを言ったら、小泉氏の目が一瞬、輝いた。    「政治家もそう捨てたものじゃないな」と人々が思うようでなければ、日本を変えるこ    とはできない。捨て身で全力疾走することだ。      (編集委員 田勢康弘)    日経新聞2001年4月30日掲載