「若き将軍の朝鮮戦争:白善ヨプ将軍回顧録」(草思社)に寄せた解説文
小川 彰 私はよく国際戦略研究のホームページを見るのだが、ほとんどは最近テレビでも見かけるようになった元外交員の岡崎久彦氏やこの小川彰氏のものである。
特に小川氏のHPには、時おり非常に表現の豊かな、感動的な文章に出くわすことがある。それを求めてなんども拝見しているのだが…。
この文章の中でも特に〔7.師団長の突撃〕 の部分が私に非常に大きな感動を与えてくれた。日本人以上に古来からのサムライ的な白善ヨプ将軍の行動に感銘を受けるとともに、「まず座らせる」ことがパニックに陥った人間を落ち着かせる最良の方法であることなど、勉強になる部分も多い。
文章を読むのが苦手な人は、この〔7.師団長の突撃〕 の部分だけでも読んでいただきたい。全部読んでいただければ、韓国の近代史の一端も合わせて勉強することができると思う。
本書は朝鮮戦争(1950-1953)を開戦から休戦まで第1線の現場で指揮し大韓民国を滅亡の淵から救った韓国軍第1師団長白善ヨプ大将〔1920-〕の自伝である。本書は同時に朝鮮戦争史であるが、戦争の経過、人間関係、組織、地名が詳細かつ正確なことから第1級資料でもある。韓国は朝鮮戦争を通じて近代的な韓国軍を建設したから、本書は無防備な国家がほどんどゼロから軍隊を建設することが一体どういうことかも明らかにしている韓国の建国の父たちは若かった。たとえば、1979年に暗殺された朴正熙大統領(1917−)が存命ならこの秋に83歳の誕生日をむかえたはずである。半世紀前に朝鮮戦争の陣頭指揮をとった白将軍も80歳で健在で、この春日本語で本書を書き上げた。将軍は戦後交通部長官としてソウル地下鉄建設の立役者となったので、本書の末尾は日韓現代史として読むこともできる。
〔2.本書の構成:「開戦前夜」から休戦まで〕
戦記物は日本では一般読者になじみが薄い上に、朝鮮戦争については対岸の火事との意識が強いので、400頁ある本書の構成を、戦争の経緯とともに説明しておこう。
(1)「序にかえてーーこの100年の韓半島」「平壌に育って」「日清・日露と亡国」「日本統治下の韓半島」の冒頭4章(9-59頁)は、朝鮮半島問題を理解するための歴史解説と白将軍の生い立ちの記である。日韓議定書(38頁)、ポーツマス条約(40頁)、日韓併合条約(44頁)などの原典が記され、将軍の解説は勉強にはなるが一般の読者には過重な負担かもしれない。それならば、この部分を飛ばして本書を読み、そのあとでこの50頁にわたる歴史解説に戻るのがよいかも知れない。
(2)「軍人への道」(60-79頁)「混乱の1945年」(80-95頁)「韓国軍の創設」(96-108頁)、「内憂外患」(109−140頁)の章80頁は白将軍の無名時代の物語である。その後の戦争で活躍する将軍たちも無名の若者として登場する。たとえば、若いエリートの溜り場になっていた平壌のとある事務所で白将軍は金日成青年に何度も会っている(89-90頁)。その後、日本軍人として教育を受けていた将軍は北にとどまれば抹殺されると考え、徒歩で韓国に逃げて軍人となる。警察に毛が生えた程度の小さな韓国軍の人間関係を理解しておくと、その後の展開を理解しやすい。
(3) 本書の核心は朝鮮戦争である。開戦から休戦までの3年間の記述に全体の3分の2の260頁が当てられている。そのなかで、最初の50頁が、「開戦前夜」(141-161頁)と、1950年6月の「緒戦 臨津港の戦い」(162-189頁)である。奇襲から、あっけなくソウルが陥落する4日間の物語は、大混乱のなかで大韓民国政府がやむなく首都放棄に至る臨場感あふれる戦闘シーンである。次の50頁は、北朝鮮の猛進撃だ。韓国軍は準備が悪いので押されるばかり。時間をかせぎながら後退する。これを描いたのが7月の「長征、洛東江へ」(190-212頁)と、国家存亡をかけてプサンを中心に鹿児島県ほどの面積に円陣を張る8月の「釜山円陣」(213-242頁)である。次の50頁は、いよいよ米軍の支援を受けた韓国軍の反撃である。北朝鮮の兵站が伸びきったところを、韓国軍が押し返す。これが9月の「北進作戦」(243-278頁)で、10月には、勢いづいた米韓軍(国連軍)が38度線を突破して平壌に攻め登る。次の70頁は、中国の介入という戦争の新段階である。38度線を突破した国連軍の一部の部隊は中国国境に達し、鴨緑江の水を水筒に詰めて歓声をあげた。その時、白将軍は「山の中に中国兵がいる」との知らせに現場に駆けつけ、捕らえた中国兵に中国語でみずから尋問を行う。1年前に建国したばかりの中国には朝鮮戦争に介入する能力も意志もあるまいと思われていたが、そのとき毛沢東は70万の大軍をもって断固介入した。人命の損失など意に介さぬ怒涛のごとき人民解放軍の人海戦術のもとに、兵站が伸びきった米韓軍の壊走がはじまった。ソウルは再び北朝鮮・中国軍の手に落ちたのである。「新たな戦争」(279-323頁)に10月の中国の介入の模様が描かれている。次の50頁は、「多正面の戦い」(324-372頁)である。中国軍は51年5月に大攻勢をかけるが米軍の圧倒的な火力の前に7万の損害を出し、さすがの中国軍も衰えて戦線は膠着、38度線が固定化する。そして、白将軍は7月から始まる休戦会談に駆り出された。いまや焦点は韓国内に残る共産ゲリラの掃討、孤児院の建設、新生韓国軍の創設に移った。そして、この戦争の最後の30頁は、「軍事と政治の狭間」(373-403頁)で締めくくられている。軍人出身のアイゼンハワー大統領と敬虔なクリスチャンで反共の闘志、李承晩大統領はそりが悪かった、というよりも、半島統一を願う李承晩大統領は休戦に反対であり、一方、米大統領は韓国に全く秘密で大国間の休戦交渉を進めていたのである。そして、白将軍は李大統領の指示で対米交渉を全面的にまかされる。たとえば、米大統領が訪韓すると白将軍は韓国陸軍増強のための援助を要請する。1953年5月にはワシントンを訪問し、米大統領との直談判で韓米相互防衛条約締結をすすめた。これには軍人同士のよしみという気安さも効果があった。右手で休戦交渉を進めながら、左手では各地で血みどろの戦闘がおこなわれたことで朝鮮戦争は不思議な戦争と呼ばれたが、それでも、1953年3月のスターリンの死を契機に、休戦合意の文書化が進んだ。そして、休戦合意に署名するばかりとなった7月、共産側は韓国軍の面子を失墜させるべく最後の大攻勢をしかけてきた。これに対して韓国軍は若干の土地は失なうが持ちこたえた。そして、7月27日、3年間にわたる戦争は銃声の鳴り響くなかでの休戦を迎えた。砲声が全戦線にわたってやんだ夜、白将軍は戦後の韓国は「富国強兵でいかなければなるまい」と考えるのであった。
(4)そして、戦後復興と日韓関係には「復興、革命、国づくり」(404-438頁)の30頁が配分されている。
〔3.朝鮮戦争史の決定版〕
朝鮮戦争史の定本は、元防衛大学校教授・佐々木春隆博士の『朝鮮戦争/韓国編』である。全体で1500頁、全3巻で、1976年から1977年に原書房からでた。「数十万の大軍が3年有余にわたって繰り広げた大戦争を、終始にわたり微細に至るまで研究し、記述すること」を佐々木博士は企図し、韓国に渡り激戦の地を、それこそ隈なく踏破したが、これに終始同行したのが本書の著者の白将軍だった。従って、将軍は『朝鮮戦争/韓国編』の隠れた共著者であり、本書がこの業績を踏まえていることはいうまでもない。「上巻」は開戦前の4年半の期間を、「中巻」は開戦直後の4日間を、「下巻」はその後の3年を扱っている。実は、佐々木博士には1966年から1973年にかけて完成させた陸戦史研究普及会編『朝鮮戦争』全10巻という大作があった。だが、当時は韓国側の公刊史の編纂が始まったばかりの上、日韓国交正常化(1965年)の直後で現地調査もままならなかった。そこで博士は新たに『朝鮮戦争/韓国編』を構想したのだ。それゆえに博士が現地を初めて取材したとき、白将軍以下韓国軍首脳は博士の博識に舌を巻いたのである。博士がすべての山の高さと戦争当時の軍の配置を知っていたからである。しかし、残念なことに『朝鮮戦争/韓国編』は専門家以外には知られずに今日に至っている。一方、白将軍には『白善ヨプ回顧録 韓国戦争一千日』(ジャパン・ミリタリー・レビュー、1988年)がある。これは、本書の「軍人への道」から「多正面の戦い」までを半分に圧縮したダイジェスト版のようなものである。ソウル陥落後の1950年7月4日、敗走する韓国軍の支援に駆けつけた米軍スミス支隊の古参下士官の挿話を『韓国戦争一千日』から引用する。
「米軍とは面白い軍隊である。縦隊の中に、新型の105ミリ榴弾砲を何門か見た。下士官の一人に話しかけると、古参下士官らしく、「自分は長いこと砲兵でやってきた。ノース・コリア(北朝鮮軍)の戦車など、これで叩いてやる」と言う。頼もしいなと思い、「グッドラック」と言って別れた。米陸軍が本当に来てくれたのだなと喜んでいると、翌5日、あんなに元気で陽気な米兵がなんと裸足で逃げてきたのには驚いた」(81頁)。
北朝鮮の戦車は装甲の分厚いソ連製の新鋭T34/85型なので105ミリ榴弾砲ではとても歯がたたないのだが、「裸足で逃げてきた」の一節をわたしは比喩表現と思っていたが、本書を読むとそのくだりは次のように補足されている。
「アメリカ軍と北との始めての接触は7月5日の朝であったが、スミス支隊は敵を阻止できず、戦車に突破された。圧倒されたスミス支隊の将兵は、水田を渡って退却した。歩兵はだれしも靴を濡らしたがらないから、靴を脱いで水田に入ったのであろう。そこを急追されて靴をなくし、裸足になってしまったのだった」(202頁)
これで「裸足で逃げてきた」理由が了解されたが、本書では、旧著で下士官とあったのが、「日本からまいりました」と自己紹介した米軍の曹長であったことや、彼が「105ミリ榴弾砲の砲身をピタピタと手の平で叩いた」ので、「頼もしいことだと喜んでいた」と記述がより具体的で人情の機微に立ち至った表現に加筆修正されている。要するに、文章に命が吹き込まれており、本書は文学的にもすぐれた軍記物に昇華しているのである。それは、本書が、佐々木博士が1960年代に着手した10巻本、現地踏査後の70年代の3巻本、80年代の白将軍による『韓国戦争一千日』、90年代の『対ゲリラ戦』を経て、ついに到達した朝鮮戦争史の決定版だからなのである。
〔4.避けられなかった戦争〕
1950年6月25日午前4時、戦車を先頭に南下する北朝鮮軍の前に、戦車どころか、有効な対戦車砲も持たない韓国国軍は開戦4日でソウルを明け渡した。韓国軍といっても先に書いたように国内のゲリラ掃討など治安・警備行動が任務で警察の兄貴分のようなものであった。一方北朝鮮軍はソ連製の新鋭T34/85戦車250台で攻めこんできた。これでは小学生と大学生の戦争である。米軍という大きな保護者がいた間は静かだったが、米軍が半島から引き払って1年で戦争になったのである。戦争に至る過程で、いろいろな誤算があった。アメリカ軍事顧問団は、北朝鮮軍の急速な戦力構築に気づいておらず、[戦車を持っていてもせいぜい日本製の旧式戦車だろう、まさかT34/85]戦車を持っているとは夢にも思わなかった。戦争を阻止するためには米軍は口先だけでなく日本国内にいつでも半島に出撃できる陸軍を駐留させるべきだった。あるいは初めから半島から引き払うべきではなかった。だが、「戦争はもう沢山」という当時の米国内の気分を考慮すると、そのどちらも無理だっただろうから、朝鮮戦争は北朝鮮軍の急速な戦力構築によってパワー・バランスが崩れたことで、もはや避けられなかったという判断になる。
〔5.日ソ戦の再来〕
北朝鮮はソ連軍がノモンハンやベルリンで行った両翼二重包囲による殲滅原理で、ソウルの北で韓国国軍を拘束し包囲しようとした。狙いは短期決戦で韓国軍を殲滅することにあった。その後は、米軍が上陸する前に南部に進撃し港を押さえる作戦だった。つまり、1936年のソ連軍ドクトリンである『赤軍野外教令』の基本に忠実な作戦で攻めてきた。一方、約40年にわたり半島での軍事教育は日本人が行ってきたから、韓国軍主要指揮官は精神的にも軍事的にも日本軍人であった。白将軍以下軍事的劣勢を必勝の信念で闘いぬく韓国軍指揮官の姿は日本陸軍の『歩兵操典』を彷彿とさせる。本書には日本人以上に日本人らしい韓国軍人の姿があちこちでかいまみられる。戦闘の極限はやはり精神力が支配するということを身をもって示したのも韓国軍指揮官であり、日本人が戦った戦争ではないが、われわれにとって、日本人とは何かを深く考えさせる戦史なのである。要するに、朝鮮戦争の緒戦は戦術上「日ソ戦の再来であった」(防衛研究所戦史部葛原和三氏)と言うことになる。また、人的資源においても、朝鮮戦争は日ソ戦の再来であった。北朝鮮軍が日本軍経験者を排除し、ソ連の士官学校で『赤軍野外教令』を徹底的に叩き込まれた幹部で構成され、一方、韓国軍は日本の士官学校の同窓生で占められていたからである。
〔6.日本を救った多富洞の激戦〕
白将軍に、韓国が救われたのが1950年8月21日の多富洞の戦闘である。この日、布陣していた韓国軍の部隊が陣地を放棄、敵の追尾を受け、肩を並べて戦っていた米軍も「わが連隊は撤収するほかはない」と判断したほとであった。もし、この戦いで北朝鮮軍が多富洞を抜けば、あとはプサンへは一息である。もし、開戦2ヶ月のこの時点で、北朝鮮軍がプサンを占領していたら、米軍の本格的来援は間に合わず、今日の朝鮮半島は全部北朝鮮になっていただろう。そういう地図を読者は想像できるだろうか。戦争がそのような形で終結していたら、日本はひとたまりもなかっただろう。日本には自衛隊(54年7月設立)はおろか、その前身の軽武装で国内治安の維持にあたる警察予備隊(50年8月設立)ができたばかりで、それは、朝鮮半島に出動した在日米占領軍の空白を埋めるためのもので、奇襲を受けて総崩れになった韓国軍以下の存在だった。それに、韓国同様共産主義のシンパは多かっただろうから、ソ連による日本赤化は成功したかもしれない。それとも、東京に大韓民国亡命政府が樹立され、日本は自衛隊などという曖昧な形の軍隊ではなく、国民が立ち上がって国軍を持ち、ソ連の思想的浸透によって日本で内戦が起こり、京都と東京を首都とする分断国家になっていたかも知れない。もしかすると、日本は独立という日を待たずに分断国家になっていたかもしれない。西日本は旧東欧のようになって、京都や奈良の仏教寺院や神社が半世紀にわたり封鎖されていたかもしれない。日本がそうならずに済んだのが白将軍のお陰だったとも言えるのは次の通りである。
〔7.師団長の突撃〕
多富洞で、後退してくる韓国部隊を見て「頭にかっと血がのぼ」って、それを押しとどめようとしたたったひとりの男が白将軍だった。以下は本書234-235頁の抜粋になるが、将軍は「今から逆襲する、突撃支援射撃を頼む」と米軍の連隊長に言い置いて山に駆け登った。そして、散り散りの部隊を山のふもとに集め座らせた。パニックに襲われた人間を落ち着かせるにはまず座らせることだ。そしてこう演説した。「よく今まで頑張ってくれた。感謝の言葉もない。だがもうわれわれが後退する場所は残されていない。多富洞が破られれば、この国は滅び、われわれには死がまっている。この大韓民国を滅ぼしてはならない気持ちは、みな同じである。見ろ、われわれを助けに地球の裏側からやってきたアメリカ軍が、われわれを信じ、あんな谷底で戦っているではないか。彼らを見捨て、自分だけ助かろうなどとは、大韓の男子ならとてもはずかしくてできないことだ」すると、兵士のなかには小銃に着剣するものや、「そうだ!」と声をあげるものがでてきた。将軍は続けた。「よし、四八八高地の陣地を奪回するぞ。おれが先頭だ。もし、おれが気後れしたら、後ろから撃て。すぐ米軍の突撃支援射撃が始まる。支援射撃の最終弾とともに突撃する」そして、後ろを振り返る余裕もなく駆け出した。喚声をあげながら兵士が続いた。マラリアの熱でふらふらする将軍は高地を駆けあがり、この1時間で、韓国軍は四八八高地の陣地を奪回し、プサン円陣は戦線破綻はまぬがれたのである。危ういところであった。ときに将軍29歳、一万人の第1師団を統率する師団長であった。このひどい戦闘で、第1師団は8月だけで四千人もの死傷者をだしたのであるが。
アメリカ軍将兵が見守る中で、その戦意を疑われていた韓国軍の信用が回復した。その夜、今度はアメリカ軍が、韓国軍の眼下の谷底で5時間にわたる激闘を演じた。この夜だけで北朝鮮軍は千三百もの戦死傷者を出した。こうして、米軍と韓国軍は朝鮮戦争で初めて全面的な協力がなされたのである。一方が破られれば、それは他方の死を意味したのだ。自分の国は自分で守るしかない。自分の国を自分で守ろうとする者に、米軍は援助の手を差し伸べたのである。
もし、白将軍がマラリアで寝込んでいたら多富洞は抜かれていただろう。あるは、あの一瞬に部隊のパニックをとめられなかったら、あるいは、「師団長の突撃」を敢行しなかったら、北朝鮮軍は多富洞を抜きプサンに押し寄せていただろう。北朝鮮軍の補給線は延びきっていた。苦しい事は両軍とも同じであった。そして、勝敗は、白将軍の突撃で決した。
こう考えると、日本人が多富洞の戦闘を知らないというのは、まったくおかしな話である。朝鮮戦争を知らないのもおかしい。なぜ警察予備隊が置かれ、それがなぜ自衛隊になったのか、なぜ日米安保条約がむすばれたのかも判らなくなるからである。
〔8.一流の戦史から何を学ぶか〕
本書の中で今日の日本の読者の最も印象にのこるのは戦争終結時に韓国内に残留した共産ゲリラの掃討作戦の挿話ではないか。
「敗残兵を除くと、ゲリラには大別して二つのタイプがあった、一つは純朴な農村、漁村の青年であり、純情な女学生である。最後まで抵抗し、捕虜になってからも死を願うのは彼らであった。純朴であるがゆえに、より強く洗脳され、最後まで戦うのである。彼らを救うのがわれわれの使命であったが、こちらもまた命がけであるから、やむなく射殺しなければならないことも多くあった。今ここに、彼らの冥福を祈るものである。もう一つが、高学歴のインテリである。純朴な青年達を洗脳した憎むべき連中である。始末の悪いことに、この連中は情勢不利と見るや進んで投降した。彼らは弁舌さわやかに転向を誓い、「きみたち国軍は立派だ、国の宝だ」と追従まで口にした。(362-363頁)」
このほかにも、わたしたちの印象に残る場面は多々あるのだが、最後になぜこのような一流の戦史を一般の日本人に強くすすめたいのかを考えてみたい。
いまや自衛隊の高級幹部でも、本当の戦争を戦った軍人と話をした機会がない世代が大半を占めるようになってしまった。そこで、たとえば、陸上自衛隊幹部学校や防衛研究所戦史部などでは、インパール作戦やノモンハン、沖縄作戦などで、食糧を断たれた中での軍隊・人間関係を体験した先輩に来所してもらいその体験を聴く研究会を行っている。指導教官の話では、学生は食い入るような真剣さで授業に出てくるというが、それは、「自分達が戦場に行って部下に信頼されるだろうか?自分は戦えるだろうか?」といった強い不安が動機となっているからだという。これを戦史に対する前向きな気持ちと呼ぶならば、戦史は戦いを追体験を通して国民のなかで伝承していく作業であり、平和な時代がつづいたとしても、廃止するわけにはいかない特別の伝承機能を持っていることになる。太平洋戦争の開戦時(1941年)に連合艦隊の全将校のなかで日露戦争(1904-1905)に従軍した経験があるのは山本五十六ただひとりであった。帝国海軍大将の定年が65歳だったから、36年前に海軍に入った者は山本以外は全部退職していた。戦争はそう頻繁に起こるものではない。幸運が重なれば、二世代、三世代戦争なしで済ませることができるかもしれない。だが、将来のことはわからない。
自衛隊員はともかく、われわれ一般人や子供達が戦争に触れるのは映像を通してであろう。ところが、日本の場合は平和教育のためにスクリーンの中で戦争のまねごとをしているのであって、本職の軍人から見るとありえない設定や奇妙な映像が氾濫している。そういう映像は架空のものなので現実の体験とはうまく接合しえないのである。
戦争についてなぜ知識を持つべきか。それは戦争を防ぐために必要だからである。そういう視点で見ると、本書は、戦争の本質を余すところなく正確無比に描いており、折に触れて挿入される人間や自然描写も素晴らしく戦争を知るための絶好の教科書である。一読されれば、戦場においてはなんと偶然が大勢を支配することか、また、その場での機転、カンがいかに生死を分けることか、そして指揮官の判断が数千、ときには数万の人命を左右するという厳然たる事実をわれわれは学ぶのである。
最後に、本書を読み解くにあたり地図、武器、組織図などがわかりやすくカラーで示された学研[1]の歴史群像シリーズ『朝鮮戦争(上)ソウル奇襲と仁川上陸』『朝鮮戦争(下)中国軍参戦と不毛の対峙戦』(1999年)をレファレンス資料としておすすめしたい。日本では個別の武器に詳しい軍事オタクは多いが、白将軍の著書を通じて、戦争に関する知識を増やし、それによって戦争の大きな流れを理解し、戦争の悲惨や戦争をどうしたら防止できるかを具体的に考えることができる人が増えることを期待します。
〔9.第17番目の参戦国日本〕
この回顧録にひとつ付け加えたいことがある。日本が朝鮮戦争に機雷掃海艇を派遣し、1950年10月17日、そのうちの一隻が触雷して瞬時に爆沈、中谷坂太郎氏が死亡、二名が重体、5名が重傷、11名が軽傷を負った事実である。朝鮮戦争当時米海軍の掃海艇は本国に引き揚げており、極東には6隻の掃海艇しか残らなかった。当時日本の掃海技術は世界一であり、戦後も瀬戸内海などに敷設された機雷排除作業を営々と続けていた。掃海艇の数78隻、技量の高い隊員1500名を海上保安庁が擁していたのだ。米海軍はこれに目をつけ、吉田茂首相に秘密裏に掃海艇派遣を迫った。吉田は拒否すればダレス特使と進めている講話条約締結交渉に悪影響を与えると判断し派遣に応じた。掃海艇は船名、隊番号を消して米第7艦隊旗下に編入された。当時、日本では世間を挙げて戦争を嫌い、戦争をやるからこの敗戦の苦しみにあえいでいるとの風潮に満ちていた。行きたいものなどいなかった上に、行かされた者の身分は運輸省の事務官だった。目茶目茶な話だが、韓国の港を掃海中に戦死者を出してしまった。掃海はまことに危険な作業なのである。吉田は特別掃海艇参加隊員の労をねぎらうために「諸君の行動は国際社会に参加せんとする日本の行く手に光を与えた」との慰労の辞を海上保安庁長官にわたしたが、4年後の衆議院本会議でこの秘密参戦の事実が取り上げられると、吉田は「掃海艇が沈没したといわれるが、現在その記憶がない」としらばくれた。参加した1200名の隊員も誰一人事実を言わなかった。殉職した中谷が国家に功績を認められ勲8等白色桐葉章を追贈されたのは死後30年を経た1979年のことであった。
わたしはこの話をよく韓国の人達にする。そして、朝鮮戦争には16カ国が国連軍として派遣されたというが、実は17番目の国があった。日本人も韓国のために死んでいるのだよと話すのである。韓国の人達の返事は、「それは知らなかったが、本当にどうもありがとう。それは本当に知らなかった」というものである。掃海艇派遣の話は元防衛大学校教授の平間洋一先生が資料を発掘して英語で論文を書いた。いまは韓国語訳も出ているので、韓国でも知られるようになったが、『朝鮮戦争(上)ソウル奇襲と仁川上陸』の「派遣された特別掃海隊の困難」(174-178頁)にも詳しい記述がある。白将軍が再三再四「16カ国」にお世話になったと書いているが、それはある意味では誤りなのでこの機会に訂正しておきたいと思った。