心に残る文章


「今も私を支えるもの」 

元氷見高校ハンドボール部監督 金原 至


 先日、グローバル教育出版社が、わが恩師金原至先生の本を出版するということで、資料集めをしていたところ、この文章に出会った。
 自然の掟は厳しい。厳しい自然の中で生き抜くには、それなりのたくましさと知恵が必要である。先生は自然の中からたくましさと知恵を授かったと言う。したがって、自然のようにたくましく力強く生きようとする子供たちを賞賛する。
 今さらながら先生の思想的バックボーンを垣間見たような気がする。

有磯の海を眺め下ろすようにして連なる山脈は、私に限りない郷愁を呼び覚まし、今でもあのうっそうとした木立の中から子供の私たちの声が聞こえてくるような気がする。

私の育った一刎(ひとはね)の村は、昭和十五年頃は人口七百人、小学生は九十人、同級生は二十一名であった。我々は六年生の一人を大将にして、時間の経つのを忘れて山々を駆け回って遊んだ。どの木もどの木も子供の手によって触れられ、なでられ揺さぶられた木であり、足をかけて木登りしたものである。春にはわらびの出場所は知っていたし、夏には、昆虫の居場所や、蚊の出没も予感できた。秋には栗拾い、きのこ狩りと子供ながらに大人から伝授されたり、自分たちで探した宝庫を持っていた。冬の竹スキーも痛快であり、雪道の落とし穴作りの悪戯も、子供の喝采を浴びる遊びであった。春夏秋冬の移り変わりの中で工夫された遊びは、子供の感覚を刺激し磨き、鍛え上げていった。敏しょうな行動は子供同士の競争から養われていった。体が小さくても負けたくない。一番乗りをしたいという子供心は、体を操る能力を磨き、反応時間を早くし、障害をするっとくぐり抜けるすばやさを作り上げた。一刎の山々を我がもの顔にかけまわった遊びが、私の運動神経を鋭くさせ、小さい体に自信を持たせた。

また、村の子供が、餓鬼大将の後ろについて歩く姿は、まさに小さな軍隊の行進のようであった。餓鬼大将の統率力を見ながら、子供ながらに大将の資格の如何なるものかを積み上げていった。力と技と心の兼ね備えた者への称賛の心を育てていったのである。

氷見では俗に言う山の学校、氷見中学に入学し、引き続き高校となり六年間在学することになった。その間、ハンドボールに興味を持った同士が全国大会出場を目指し、泥をなめ地面を這いずるような過酷な練習を自分たちで強いて青春時代を送るようになった。仲間は十五人、指導者のいない部活動、そして主将に選ばれたのがこの私。十五人の中には勉強もできるし、人望の篤い者もいたのに、どうして私が選ばれたのか。言うなれば餓鬼大将の到来でしかなかったと思っている。「勝つ」ことしか考えなかった。勝つためには敵なしである。いずれにせよ、十五人の者はすばらしい仲間であった。仲間に恵まれ支えられていた。星を見ながら帰ることに無上の喜びを感じ、すき腹を満たすのに体裁をかまわずハシゴした仲間、「勝つか、負けるか」しか考えず、裸足でも全国大会なるものに出場しようと意気込んだ輩でもあった。指導者がいないので手探りの練習。今で言う科学的練習には縁遠い。役立つのは幼少から養った勘のみ。グランドに響くのは、走れ、投げろ、まかしとけ、やったぞ、と仲間の怒声と歓喜の声だけ。そして少しずつ知恵を絞り勉強して作り上げた手造りのハンドボール。これをひっさげて全国大会に出場した感激は筆舌に尽くせない。まさに青春したのである。

これをきっかけに、私の人生は百八十度回転し、大学に進学、卒業後母校で生徒と再びハンドボールに明け暮れ、幸いにも「日本一」をかちとる幸せ者になれた。

大学ではすばらしい指導者や先輩にめぐり合えた。渇望しているものに水、汲めども尽きせぬ奥深さをもった指導者に恵まれた。更に、よき先輩、よき同僚、この経験が私に教鞭をとらせ、ハンドボールへとかきたてたと思っている。

一刎の村で遊びたいだけ遊んで磨かれた感覚、十五名の仲間ががっちりスクラム組んで励んだ氷見高校時代、そしてハンドボール一途に没頭した青春の力こそ、現在の私を作り育ててくれたと痛切に感じている今日この頃である。

『自然を大切に』 恩師金原至先生の口ぐせである。自然が人間を創り、自分の中の自然を最大限に発揮すること、つまりあくまでも自然であることがその人の個性を伸ばすコツであるという。いかに私たちは子供たちを不自然にしているか、改めて考えさせられる。