心に残る文章


「奈須こずえが逝った・娘Mよりお父さんお母さんへ」 

元大分東高校女子ハンドボール部監督 藤原 泰郎


  藤原先生とは面識はありませんが、以前手紙などで少しだけ心の交流をさせていただきました。
 先生の指導理論と実践力、観察眼には全く敬服する次第ですが、悩みが生じたときなどは、先生のHPを読ませていただいているうちに、「スーッと悩みが解消した」こともしばしばありました。
 その先生のHP「ハンドボールやぶにらみ二六〇〇字論評」http://www.geocities.co.jp/Colosseum-Acropolis/4511/index.htmlの中から、私が感動した二つの文章を紹介したいと思います。生徒の死を弔った文章と生徒が結婚時に父母に宛てた手紙を紹介したものです。先生の人づくり、先生と生徒との心の結びつきを知るのに最も適した文章です。
 

   奈須こずえが逝った〜ハンドボールに関わったその愛すべき人生をみる〜

 野津原中学バスケット部を経て大分東高女子ハンドボール部に入って来た。ちょうど30年前の昭和47年である。大分県No.1チームだったから大変な苦労だったろう。下宿通学だったり自宅通学だったりであった。1学年上が全国2・3位のチームだったし、1学年下のチームがインターハイも国体も2位のチームだったので、その間をつなぐ地味な役割を同級3人と力を合わせて果たしてくれた。だからと言って粗末なチームではなく、九州ではトップに位してインターハイや国体に出場して活躍する嚇々たるものであった。彼女等が3年生になった時の1年生が例のグランドスラムチームで日韓対抗戦をモノにし、「史上最強の高校チーム」の伝説がいまだに続いているチームである。そのチームを「動機づけ」したのが彼女たちであった。その後は地元に就職し、プラーベートな余暇を使って後輩チームの応援にとどまらず、ボランティアコーチとしての役目を果たしてくれた。他方ではOGクラブチームのマネージメントを引き受けて国体などにも参加してくれたものである。

 その彼女が不幸な事件に遭遇して5月30日午後7時45分頃、凶刃に倒れて亡くなった。享年45。人生真っ盛り、誠に残念でならない。葬送は月が替わって2日午後1時、多くの先輩や後輩OGに見送られ、まるで女子ハンドボール部葬であった、との報告を受けた。

<弔電>驚愕の報に接し、ご両親ご弟妹みな様のご心痛を察し、心からお悔やみとお慰めを申し上げます。わが家一同も涙にくれております。

<弔辞>大分東高女子ハンドボール部OG「奈須こずえ」さんにおくる。

奈須こずえ さん・・・断腸の思いで、惜別の言葉をおくります。情けないです。悔しいです。悲しいです。空しいです。残念、無念です。

奈須 さん・・・あの時、もうひと言付け加えておけばよかった、と悔やまれてなりません。

こずえ さん・・・出合いはあなたが中学三年生十五才の冬でした。それから、ちょうど三十年。あなたとの数多くの思い出が、走馬燈のように駆け巡ります。

奈須 さん・・・わが家の玄関で「ただいまアー」と大声で呼び、「お母さん、帰ったよオー」と言って、一晩中、家内としゃべりあっていた、あなた。そんなに足の速い方でないあなたが、何故もこんなに人生を早く駆け抜けなくてはならなかったのですか。

こずえ さん・・・冬の朝練習は野津原からの始バス、凍りつくような私の自家用車の座席に、「おはようございます」と大きい挨拶で乗り込み、震えながら小さくなって待っていてくれました。春・夏・冬、それぞれに、あなたとの思い出が重なって、あなたそのものが私達にとっては「青春」でした。

奈須 さん・・・私達はよく歌うチームでした。皆と肩を組んで、さあもう一回歌ってみませんか。

 朝日輝よう豊の海 山姿うらら九六九位や
 夕映え匂う日吉原 眺め清らの地に立ちて
 母校のいらか高きな 大分東高校 光あれ。


声が出ないペナルティーとして、草を食べたこともあるあなた達を、涙の向こう側に見たこともありました。

こずえ さん・・・私達は、常に文句抜きで限界に挑戦しました。それを超えた向こうに、私達の大きい目標があったから、次々にバトンタッチして経験を積み重ねて、あなたが三年生の時の一年生達が、念願の全国優勝を実現してくれました。

奈須 さん・・・あの金字塔は、大分東高女子ハンドボール部に集まった全員のものです。あの「史上最高の高校チーム」と言われたものは、他ならぬOG一人一人があってこそのチーム、なのです。あなたあっての、あのチームだったのです。

こずえ さん・・・先輩に可愛がられ、後輩に慕われ、後輩チームやOGチームを支えるマネージメントの献身ぶりは美事でした。本当にご苦労さんでした。それらの地道な努力の活動が花開いたのが、別府亀川の姫山のふもとの別府女子短大付属高チームの指導者になってもらった時でした。あなたは実力大分県一の高校チームをつくりました。その時に育てた長木由佳は、今も広島の日本一のチームで頑張っていますし、その頃面倒をみた四国今治の花岡恵美子は、いま中京大学のキャップテンです。

奈須 さん・・・あなたがその大きい目に涙を一杯貯めて、「私には子供がいないですが、この子たちが私の子供です」と言い放った時、胸の中をあついものが走り抜けました。たかがハンドボールに自分を犠牲にし、自分を粗末にするなと忠告した時の返事こそ、あなたの性格とその生きざまそのものに感激したものです。

こずえ さん・・・あなたの明朗快活で気宇壮大なるところは、お父さんの忠治さんゆずり。美人でひとに優しいのはお母さんの信子さんゆずり。特にあなたは、他人の悪口を決して言わない人でした。その優しさの裏返しにある愚直さ、そしてちょっぴり我が侭で一本気なのが、あなたでした。

奈須 さん・・・私が大分県で初めて「競技スポーツ指導者」として「教育功労者」として表彰されたその祝賀会を、あなたを中心とした同期の4人が盛大に催してくれました。草創の吉渡監督時代の大大先輩や、川西監督時代の大先輩達。それらにOG父兄の皆さんも大勢駆けつけて下さり、盛大に祝って下さいまして私達夫婦にとりまして終生の誇りです。ここでもあなたらしさを見せて、その総てをプロデュースしたのに決して表面に出ようとしませんでした。ありがとうございました。県下各地はもとより遠く県外からも懐かしい顔が多く集まり、海外からの祝電にも驚き、記念の品と共々に宝物、本当にありがとう、です。

こずえ さん・・・あなたの言動に考えるヒントを与えられ、そして教えられて学び、そして鍛えられて育てられたように思います。いまだに専門誌が「名将五指」に数えてくれるのも、あなた達があってのこと。本当に感謝で一杯で、ありがとう。感謝をこめて、愛唱歌をおくります。聞き慣れたものですが、一緒に歌って下さい。元気よく、ですよ。

 今ぞ見よ かがやかに 誇り満ちてるこのあした
 とどろく凱歌は 我とあり
 若き血潮 眉あがる 肩を組み高らかに
 歌えよ今 わが勝利


奈須 さん・・・これからは、大変な子煩悩であるご両親の側で、野津原の濃くて深い緑に抱かれて、静かにゆっくりとお休みなさい。あなたは永遠に私達一人一人の中に生き続け、決して忘れることはありません。

こずえ さん・・・さ、あなたらしく元気よく、旅立ちなさい。そして遠く高い処から暖かく私達を見守って下さい。あなたを思い出して逢いたくなったら、日吉原や屋山や、亀川姫山下のアウトコートに佇みます。あなたのかけ声や笑い声やカン高い話し声が、耳を澄ましたら、きっと聞こえると思いますから。

奈須 こずえ さん・・・名残は尽きません。笑顔をありがとう。心遣いをありがとう。優しさをありがとう。涙をありがとう。勇気をありがとう。あれもこれも、ありがとう。思い出を一杯、ありがとう。

平成十四年六月二日、高校県体・インターハイ予選の日
元監督 藤原泰郎 (入院中のため 代読 元主将 島村芳子)


        娘Mより、お父さん、お母さんへ

 2年前の二十歳の誕生日、お父さんは子供の頃の様に大きいお祝いのケーキに20本のローソクを立てて祝ってくれました。ちょうどその日は、お父さんが名古屋への単身赴任ガ決まった日で、「今度戻るまでには嫁に行くかもしれないなあ」と淋しそうにつぶやいた声が今も思い出されます。「大丈夫、ずっと家にいるから心配しないで」と応えたのに。小さい頃からお父さんが大好きで、何時もそばにいました。お父さんの匂いの着いた毛布で寝ると安心していた頃のこと、反抗して叱られて、それでもお父さんにくっついていた頃のこと、今は全てよい思い出です。

 でも、一番感謝していることは、小学3年生から続けた部活のハンドボールで、夜勤で疲れていても、練習や試合の応援に来てもらったことです。特に高校時代、試合に出ていない時でも、夜勤で疲れているのに熊本の九州大会にまで、私と私達のために応援に駆けつけてもらったあの日の喜びは、一言では語りきれません。あの日のお父さんとお母さんの私への愛情の暖かさと大きさに涙が出ました。そしてあの時のことを思い返してみますと、今でも涙が溢れます。
 
 そんなことが、何があっても負けない力を私に与えてくれました。そのエネルギーはお母さんでした。特に負けそうになりがちな私に、弁当と一緒に「行ってらっしゃい、頑張ってね」と元気よく送り出してもらいました。負けず嫌いで強がりな私に悩まされながら、涙を流しながら話して下さった数々のこと、私は決して忘れません。そして今、私はお母さんのような母になりたいと思っています。わがままで迷惑と心配ばかり、本当にごめんなさい。
 
 お父さんとお母さんの見守りがあったから、頑張ってこられました。そして「悔しさをバネにしなさい」は私の薬でした。ありがとう。そして何時も名古屋に戻っていくお父さんの見送りに、用事や仕事といって行かなかったのも、淋しさから切なく涙が止まらなくなるので、ごめんなさいお父さん。22年前にお父さんお母さんの子供として生を受け、今ここに多くの方々に祝ってもらうことができたことを、とてもうれしく思います。慈しみ愛し続けて下さって本当にありがとう。これからはお父さんお母さんのように、「行ってらっしゃい」と行って見送ってあげられるようになります。そしていつか必ず幸せ一杯の家族をつくっていきますから、これからの私を見ていて下さい。

 最後にM君。お父さんももう一年名古屋で、お母さんも淋しいと思うから、お母さんのこと頼んだよ。それとお母さんとは今まで通り仲良くケンカしてね。そして今までうるさかった私の面倒みてくれて、ありがとう。お父さんお母さん、健康に気をつけて、体を大切にね。