このコーナーは東洋の古典から神髄部分を抜き出し、現実生活の指針として役立てようと思い開設しました。

「藝術大意」

 たとへば人の舟に乗るが如し。舟堅固なる時は乗る者安くして能く水を渡す。常人は一つ橋の危うきを渡る時は、膝ふるへて足自在ならず。水練に達したる者は大路を走るが如し。此れ心の別なるにもあらず、利たるにもあらず。水に投じて死せざるの術を知る。故に神気定って、この念動くことなし。故に自在をなす。藝術を事とする者、危うきを犯して動ぜざる事は、水練に達したる者の一つ橋を走るが如し。

夫れ剣術は止むを得ざる事に起こる者なり。不得止相迫る時は、勝負なき事あたはず。天地の間、陰陽相迫って、而して進む者伸る者は勝なり。相迫って、而して退く者は負くるなり。天地は無心にして、只陰陽の昇降の自然に任するのみ。陰陽昇降の中に、大極あって存す。大極は至誠の理なり。色もなく形もなく声もなく臭もなし。只陰陽の主と成りて、感に従って風雷雲雨を起こすなり。方物を化生するの事を用ふる者は陰陽の気なり。勝負は其の応用の迹なり。理気相乗じて不測の霊妙をなす、それを神と云ふ。此れ心の本体、寂然不動にして色もなく形もなく臭もなし。何ぞ一物の蓄あらん。無物なるが故に、霊明に乗じて不測の妙用をなし変化自在をなす。若し僅かに生を好み死を悪み勝負を争ひ、期必の心ある時は私智計較の念生ず。私念僅に生ずる時は、一物心頭を縛して本体自然の霊明を塞ぐ。此理は聞いて知り易けれども、自修の精しきに非ざれば内に徹し難し。水を飲んで冷暖自ら知るが如くならざれば、只心体の噂のみなり。自ら試みて知るべし。霊明の物の為に塞がる時は、豁達自在の気其道を失ひ、強弱偏倚の心体二つとなる。妙用何れの処にか生ぜん。如此者は闘って敵に勝と雖も、只打合の巧者とは云ふべし。剣術の奥を得たる人とは云ふべからず。


熊沢蕃山は中江藤樹から陽明学を学び、16才のときから備前岡山藩主池田光政に仕えて文武ニ道を士道として完成させ、岡山藩の教育と実学による経済の立て直しに大きな影響を与えた。晩年は彼の主張する国策論があまりに過激すぎて幕府の国策と相容れず、幽閉の身で終えていくのだが、師である中江藤樹とともに数奇な運命をたどったと言える。

この文章は遺書である「藝術大意」の中からの抜粋だが、剣術の極意をあらわしたものである。儒学と武士道を合体させ、独特の「士道」を完成させた蕃山の面目が躍如としている。

内容としては「大きな船に乗っていると誰でも水は恐くはないが、普通の人は川に渡した1本の橋を渡るときはひざが震えて渡れない。しかし、泳ぎを練習して達者になったものは大きな道を走って渡るような感覚で渡る。これは川に落ちても死なない(泳げる)という気持ちがあるかないかによるものである。練習することによって神気が宿るのである」

「剣術も同じで、練習を積むことによって神気が宿り、そこまで熟練すると頭の中で考えなくても体がひとりでに動くようになる。勝負は神気の進んだ方が勝ち、あれこれ考えて迷った方が負ける」「冷たい水を飲んで、あー冷たいと思うような感覚で剣が繰り出されてくれば、一流の剣術師である」

 と、大体はこんな内容だと思うが、これはハンドボールにも当てはまると思う。考え抜かれた練習方法を徹底的に繰り返り繰り返し練習し、想定されたケースに体が自動的に反応するぐらいまで練習を積めば、勝負というものは後からついてくる。