このコーナーは東洋の古典から神髄部分を抜き出し、現実生活の指針として役立てようと思い開設しました。


『学習院初等科生に対する訓示』 乃木 希典


一、  口を結べ、口を開いて居るやうな人間は、心にもしまりがない。
二、  眼のつけ方に注意せよ。始終きょろきょろして居るのは心の定まらない証拠である。
三、  敬礼の時は先方をよく注視せよ。
四、  自分の家の紋所・家柄・先祖のことは、よく聞いて忘れないやうにして置け。先祖の祭は大切であるぞ。
五、  男子は男子らしくなくてはいかん。弁当の風呂敷でも、赤いのや美しい模様のあるものを喜ぶやうでは駄目だ。
六、  決して贅沢をするな。贅沢ほど人を馬鹿にするものはない。
七、  人力車には成るべく乗るな。家で人力車をよこしても乗らないで帰るくらいにせよ。
八、  寒中、水で顔を洗ふものは幾人あるか。湯で洗ふやうではいかん。
九、  寒い時は暑いと思ひ、暑いときは寒ひと思へ。
十、  破れた着物を其の儘着て居るのは恥だが、そこをつぎをして繕って着るのは決して恥ではない。いや、恥どころではない。
十一、恥を知れ。道にはずれたことをして恥を知らないものは禽獣に劣る。
十二、健康の時は無理のできるやう体を鍛錬せよ。けれども一旦病気になったら、医者のいふことをよくきけ。
十三、洋服や靴は大きく作れ。恰好などはかまふな。
十四、何になるにも御国のために役に立つ人にならなければならない。国のために役に立たない者、或いは国の害になるなるやうな人間は
    死んでしまった方がよいのである。



  乃木希典は、日露戦争で第三軍司令官として旅順攻略を果たした陸軍大将である。旅順攻略は13万人の兵士のうち、半数近くの5万9千人が戦死するという凄惨な戦いであったが、これを機に日本の形勢が有利に展開し、バルチック艦隊撃破、講和条約締結につながったのである。
  彼は1849年長州藩士乃木希次の三男として江戸の長州藩邸で生まれた。厳格な父親の下で育てられ、萩の明倫館で学んだ。父親の厳格さについてはこんなエピソードが残っている。ある寒い冬の朝、少年希典が爪掛(つまかけ=つま先の覆い)の用意してなかった木履(あしだ=下駄)を玄関先に放り投げたところ、これを見かけた希次がスッ飛んできて希典を降りしきる雪の中へ押し倒し、下僕の運んでいた荷桶の水を二杯まで浴びせ掛けた。また、希典15歳の同じく真冬の寒い日、「今日は寒い」と言ったところ、「寒ければ着物をきせてやろう」と、彼を素っ裸にして頭の上から冷水を手桶に三杯まで浴びせ掛けた。以降彼はどんなに寒くとも「寒い」と言わなくなったという。当時は『殺されるかも知れない』と思うほど父親を恐れていたようである。
  この『学習院初等科生に対する訓示』は彼が退役後、学習院長となったときの生徒に対する訓示である。多分に時代背景の違いを感じさせられる部分もあるが、根底を流れる精神にはさすがに古武士の流れを感じさせる。あえて訳はしないが、明治天皇大葬の日、夫人とともに自決したその事実は、大正初期の武士道すたれた浮華文弱な世に対する警鈴として、いつまでも人々の心に残ることとなった。
 「人は鍛えることによってのみ成長する 」 という先達の教えを、どうも私たちは忘れてはいまいか。子供を『鍛える』かわりに『あまやかし』てはいないだろうか。これは大いに家庭教育上の問題なのである。毎朝学校の門前が大ラッシュになるという教師の声を聞き、乃木大将の言葉を思い出すのである。「せめてハンドボール部員だけは…」とひそかに願う。