恩師 金原 至 先生との心温まる会話

  このコーナーは、恩師 金原至 先生(氷見市が生んだ偉大な教育家。1977〜79年と母校氷見高校ハンドボール部を国体3連覇に導く。元全日 本エース、西山清選手を育てた)と1991年12月から1992年3月にかけて、ハンドボー競技と教育に関して語り合った内容を紹介したものです。 あれからずいぶんと年月が経過しましたが、先生の語られた言葉の数々は今尚、私の中に血となり肉となって残っています。この感動を、少しで も多くの人と分かち合うことができれば幸いです。
  尚、先生の言葉は、その人となりを正確に伝えるため、あえて氷見弁の方言をそのまま載せてありますのでご了承ください。

心の弱さというのは、どういう風にしたら強くつくりかえることができるんでしょうか。

やっぱりあれは自信やちゃ。プレーに自信を持つには体で覚えるより仕方ないげん。体で覚えるということは、練習ももうちょっと、いつもかーも膝に手ついとらにゃ立っておられんような練習せんならんげん。

 そうですね、やっぱりそれしかないですね。

それをしないとね、なーん体に付かんわい。それであいつら「もうできん」いうて言うたらやめるげん。負けても良いげん。「最後の一人が残ってもおら付き合いしてやる。そういうようなやつがあつまってこい」と。将来そういう風にして変えてしもわにゃあかん。親が何と言おうとそんなもんなーん構わん。親が出てきたらね、バーンと親を叱り付けるようなやつおらんなかい。結局ね、自信が無いげんちゃ。自信が無いから叱られんげん。

 東小学校で悪いことしていじめてどうもならん生徒がおったがい。そいつを先生が「そんながダメや」言うて叱り付けたら、家帰って親に言うたがい。そしたら親が暴れてきたげん。それで学年主任な怒って、「あんた何ゆーとるんですか、子供のこと一つもわかっておらんなかい」こうやったらしいわ。そしたら「どうもすんません」いうことになってね。みんな弱気になっとるからアカンげん。それだけぐらいの生き方言うかね、信念やちゃ。その子供を信念持って教えりゃ、親も吹っ飛んで行くげんちゃ。軽いもんやちゃ、人質やから。それを、あーでもないこーでもない言われたら、先生はまっで負けてしもうがい。かわいそうなもんやちゃ。でもね、やっぱ信念で教えにゃ。

 僕はいつも思うんですが、先生が本当に生徒のことを好きなら、その生徒のために言っているんだと本当に心の中に持っていれば、親が何を言おうが「あんたの子供のために言うとるがや」と言えばそれで済むはずだと。
 本当にその生徒がかわいくて、なんとかしてやろうと思っているのかどうか、根本的なところが無いのではないかなーと思うんです。

 気ぃ付かんげんちゃ。「もしかしたらあんた、子供かわいくないがでないがけぇ?」「やー本当にかわいくないがでないがけ」と言うてやれば、逆に「あんた、何言うとるがいね、あんたにそんなこと言われんでも、かわいいもんはかわいいわいね」と言うた途端に「バカヤロー!かわいかったら口出しするなー」やちゃ(笑)。

選手は指導者のような人間になっていくんじゃないでしょうか?すなわち、指導者の人格が徐々に生徒へ浸透していくと思うんです。

ともかくね、指導者というものは一生懸命勉強して一生懸命頑張らにゃ、選手は絶対に強くならんことは事実やね。

 指導者が「おーい、やっとれ」言うて職員室でタバコ吸うとったら上手にならんわね。それよりもまず第一に毎日練習に出て行くということやね。それでこのごろの指導者はベンチに居ってタバコ吸うとるやろ、僕はあれが気にくわん。生徒が飲みもせんのにジュース飲んでみたり、よくあんなことができるなと思うげん。生徒が「今コップ一杯の水が飲みたいなー」と思うとる時に、清涼飲料水をすーっと飲んでしまう。それでも今の子はおとなしくなったね。昔やったら怒ったよ。子供がものすごい利口になり過ぎてね。今一口の水を飲まんにゃ日射病にかかる、そんな練習なんかしないしね。昔はユニフォームがまっ白になったげん。塩吹いて…。あれだけのことを梅干一つ食べさせるだけで何度も練習したげん。マムシも喰わしたなぁ。それが良い悪いちゅう問題じゃないげん。もうこれ以上体を使ったらダメやろう、というところまでやるんだから。ひどい時は合宿でカレー6杯食べるやつもおった。強い時ゃ食べる物も食べるわい。

 それだけ食べたらその後練習になりませんよ。

 おー、練習にならんけどね、本当によー食べたよ。ま、飯が喉を通るうちは練習が楽なんやけどね。

 肉体的な面と精神的な面の両方において、先生の生徒に対する教え方というか、コーチングマニュアルを基本的な部分だけでも小・中・高と一貫させておく必要があると思うんですがどうでしょうか?

 そーやねー、そんなのができたらすばらしいやろーねー。

 氷見クラブが中心になってやったらいいと思うんですが、今は7月の全国クラブ選手権(1992年7月26日地元開催=優勝)でベスト4に入ることしか頭にないんですけど……

 おー、あの大会はなんとかあんたがたに頑張ってもらわにゃならんと思っとるがで。インターハイほどの規模はないけど地元で開催やさかい、地元のチームが残っとるかどうかで大会の成功不成功が決まってしまうからね。それで7月まで頑張ってその余勢を駆って8月の国体予選に臨むと。

 気持ちは一人一人すごく良いものを持っているんですが、どうもそれが一つにならないんです。それが一つになればすごい力になると思うんですけど…。今みんな練習始まる前にコートを雑巾掛けしているんです。それくらいの気持ちを持ったやつばかりだから、これが一つになれば面白くなると思うんです。

 高西(昭和55年卒)あたりがインターハイでミスしないでプレーできたというのも、これは光安美津夫と山崎祐治がお互いに話しをしなくても相手のプレーをまるで覚えとったということやちゃ。高西という人間がどれだけの範囲のプレーをやるかということを知っていたわけやちゃ。高西には能力を超えるプレーをさせるようなパスをやらなかった、それがノーミスにつながったわけや。そんなもん全国の舞台でねぇ、一回戦から決勝までミスしないで行けるわけないがいちゃ。選手の一人一人がものすごい高度なハンドボール感覚持っとって、それで現有勢力の中でそれをフルに出せるように、一人一人が相手のプレーをよく知っておったということやちゃ。ただそいつに合わせておればいいんで、自分勝手なことなんかなーんもしとらん。それで集団テクニックからワンマンテクニックに切り替わるととたんに点を取ってくる。だから集団テクニックをバーっと持っていって、これがワンマンテクニックにパッ!と変化した時には一点取るちゅうやつやちゃ!はじめからワンマンテクニックではいかんげん。ビュビューッと行っておいてポンポンとやったらストーンと一点取るちゃ!だから最後には一人で氷見高校の運命を双肩にになってバーンと行くわけやちゃ。それくらいの器量がなかったらあかん、ということが選手の間にみなぎってこんことには、ギラギラしてこんことにはあかんんがい。

 監督が言うてもあかんがで、選手の会話、選手だけの態度、選手だけのやりとり、そういうものが試合で生きるか死ぬかを決めるわけやから、監督がどんなことを言うておってもダメながい。おらも自分でびっくりしたよ。なーん教えとらんでもちゃーんと生徒がうまいことやってくれるもんでね。ありがたいことやのーそんなもんちゃ…。試合は監督の教えたこと、監督の言ったことで勝てるようなもんじゃないちゃ。選手が一人でつくっていくもんや。選手がちゃんと臨機応変の処置を取って勝っていくもんや。あんなもん、全部応用問題やからね。応用のきかんやつは相手が良く見えなかったり、ちょっと変わったことをしたりする。

 それと、都会のやつらはユニフォームが立派で、お揃いのボストンバッグ持っとるし、それに比べて氷見高校といったら破れたようなバッグ持っとる。そういう時は「こいつら強いんでないかなぁ」と思うもんながいちゃ。東京の者が履いてきたズックでも気になるもんながいちゃ。自分の身に着けとる物、履いとるものが一番貧相に見えるもんながいちゃ。

「そうやって見えたら負けやぞ!」田舎の者が勝っていく時にはそう思わにゃあかん。「我々のハンドボールいうたらおまえたちのハンドボールとは一味違うんや!」という、「良い意味のプライドを持て、生意気になったらあかんぞ」と言ってきた。

 先生の話を聞いていると、やはり指導者の人間性というものが非常に必要やと思うんです。そして一つのコーチング哲学を持っておられるから、経験に沿ってどんどんいろんな指導の言葉が出てくる。 先生の話を聞いていると、やはり指導者の人間性というものが非常に必要やと思うんです。そして一つのコーチング哲学を持っておられるから、経験に沿ってどんどんいろんな指導の言葉が出てくる。

 今、サッと言う時に、「何を言えば一番あいつに効くのか、一番良い薬は何かな」ちゅうやつがパーッとタイムリーに出てくる指導者はやっぱりすばらしいと思う。その子の悩んでいるものを発見して、今、悩みをほぐしてやらんならんなと思ったら、その悩みをほぐすような材料を引き出しの中から見つけて来んにゃならん。引き出しをいっぱい持っておらんにゃあかんがい。材料のレパートリーが少ないとあかんがいちゃ。

 やっぱり勉強しなくちゃいけませんね、コーチは。

 要するにチャンピオンスポーツは美と力の極を求めよう(芸術的作品をつくる)とするわけで、何も健康のためにやっとるわけじゃない。だから、どんな作品ができ上がるのかという一つの楽しみがあるわけやちゃね。「やーっ、すばらしい空間を獲得しとるなぁ、あの子は……あのタイミングはちょっと例を見ないぞ」というような曲線を描くやつもおる。パーッと切っていった時に、すばらしい空間を獲得したときのイメージが残らにゃあかん。やっぱりそのイメージングというものが良くないとコーチもダメやね。今やっている動作じゃなく、選手が持っているところの空間における軌跡やね。そのイメージがパーッパーッと描けるようにならんと……「今のやつや!」と声を掛けてやることが光安(昭和54年宮崎国体優勝時のエース)あたりには必要になってきたね。

 そういう世界で話しできる選手とできない選手がおって、やっぱりこれは教え伝えることのできない技術なわけだから共感するよりしょうがない。一つパーッとフェイント仕掛けてその次ぎのやつにもう一つフェイントでひっかけて、そしてシュートと見せ掛けてこっちへパッとパスをする。その時に手の中にボールがなかったりするわけや(キャッチミス)。その時にその失敗をうまい!と褒めるのかまたミスをしたとしかるのか、僕はうまいと褒めてやる。本人は「なんでミスをしたのに褒められるのかな」と思うかも知れんけど、もしあのときおまえがボールを落さなかったら、おまえの先読みはもう次のやつを抜いてしまっとる。そして得点してしまっているプレーをおまえが今やった。あれは日本では一流のプレーなんだとこう言ってやる。そうするとそいつは、「この人はそこまで見てるのかなー」と思うわけや。選手は確かにそこまでやろうとしておる。そこまでやっぱり育てにゃあかん。そしてあれでもってハンドボールを楽しまにゃあかん。非常に今日は楽しいプレーだったと、その人間と指導者の二人だけの間に、感激するような共通の興奮というか共通の理解というか、ことばでは表せないところの技術というものを共感するげん。その人と共にそこまでもっていかにゃハンドボールは面白くない。

 そういうものをイメージングできる、追い求めることのできる監督・コーチならば、日本一なんかすぐに獲れるでしょうね。

 ま、日本一は獲ろうと思って獲れるもんじゃない。それよりも、自分のプレーというものを面白く楽しく、最高の楽しみの極へ持っていかにゃあかん。ハンドボールの動きとか軌跡とかそういうものがどんどん変わっていきながら、相手とのタイミングをずらすとか、戦いやから……そういう中であいつが生きて、このプレーが生きて、ということをやっておれば全国なんか知らない間に勝ってしまう。

教え方なんていろいろあるげんちゃね。「そんなこと何できるこっちゃ」(できない)いうて言う場合もあるし、「あ、それやったらできるな」と思う者も居るし、だからあいつらの数段上を行かにゃならん。「お前、島尾のサル見てめーサル、そんなもん人のポケットから盗んでもね、本人がわからんような盗み方ちゃあるげんぜ」(笑)

 おら理博に言うのは、「お前のプレーは速い時もあるし遅い時もある。だけども着眼点が早ければ、足が動かんでも速い時もある」と。「あるけれども、結局お前のプレーは動く者がたくさん居らねば、生きてくるプレーではないんだよ、ちゅうことをお前知っとるか」おら、こう言うてん。「お前が動いて組み立てる場合もあるけど、人が動いてお前が組み立てる場合の方が多いんだ」と。だからそういうような場合には自分はどういうようなプレーを一番していかにゃならんか、そういうようなものを覚えんならん。だけどあれは運動能力ちゅうて言うたら、速さとか力とか持久力とかちゅうて言うたら二流選手なんですよ。僕は現役の時から知っとるげん。そやれど、ようあそこまでそれだけしかない材料でやってきたと、こう思うとる。

だから僕はね、人間にはいろんなタイプが居るもんやなーと思うげん。自分の能力を使い切っとる者も居るし、使い切れん者も居るし、それはやっぱり高校か中学の時の指導によるげんちゃね。指導の問題やと思うね。指導で上手にこう、コンタクトしておけば使えた選手がいっぱいおるがでないかなー。

そういったことはその人の性格的なものに大きく関わってくるんじゃないでしょうか。言い方は悪いんですが、いわゆる「やんちゃくさい」選手なら人の裏を掻いて「ああしてやろう」「こうしてやろう」と考えてプレーすると思うんです。そうやって楽しむんだけれども、温和な性格の選手は言われたことを「ハイ」と言って、言われたとおりキチンとこなします。だけど、独創性が無いからプレーがこじんまりしてしまいますし、第一本人が楽しめない。そういう人間でも、もうちょっと何かヒントを与えながら考えさせるということをすれば、少しぐらいは面白いプレーができたりするんじゃないでしょうか。

おら、そのような連中は実際はね、本当にハンドボールが面白いがか面白く無いがか、ということから始まっていかにゃアカンと思うとる。面白いんだったら面白いと思うことをやろうとする、そのジャマをこっちはしてはイカンような…。

人間でないかな。もっと自由に大らかにしてやって、そして結局良い面というものをものすごく強調して、ほめてね。それを、この辺が日本人の講師はヘタながでないかなと思うがいけど、何かトコロテンみたいな型にはまっとらにゃアカンみたいな指導をする。しかしね、世界の一流選手が時にはハメを外すようなことをするのは、結局は自己実現の為なげん。この自己表現・自己実現というもののために彼らは生きとるげんなかい、この世の中で。

自己をどうこの世の中で実現していくかという、その自己実現に不足するような選手をつくっちゃいかん。充分自己実現をして充実していくという選手をどう創るかやちゃ。だから「お前は何をしたいげん」「おれはこれをしたいげん」「そうか、やれ」という、こんな感じの間柄ができることが大事やね。

だから、結局は自分を表現できない人間に、どう表現するように仕向けるかという問題ですね。それだけ強烈に自分を出そうとしない人間に、それでも「自分を出しなさい」と言っていけばそれで良いのでしょうか。

自分を出さにゃスポーツはどうにもならんげんちゃ。「おれはこう走るつもりやったのに、お前は走らんだなかい」ちゅう風に、こうやろうと思っていたのが思ったより違っとったりするような、衝突するようなことが起きるわけや。だからまず第一に出るものは何か言うたら『実現』やちゃ。自己実現。そうしないとね、指導の手だてが無いがいちゃ。自分が「やろう」としないと…。だから、そういうことが365日僕は何十年でも、そんなことの繰り返しみたいなもんでしょう。ただ乗り越えやるだけ。やるだけやったら課題は出てくるから、その過程でもうちょっと力強くとか、もうちょっとそれはこうやとか。

Kという市会議員の息子がおって、高校入りたての頃は成績も真ん中位やったがいけど、志望校どこや思うたら京都大学いうて書いとった。それが2年3年とクッと成績上がって、結局京大入って行ってしもうた。そんながもおるげんちゃの。

それは目標管理と、それに向って自分を追い込んで行く精神力とが素晴らしかったんでしょうね。

おー。だからね、学習の秀でた者と話をすると共通点があるげんちゃ、おら思うに。だから同じ人間ばかり集めておくことは、この人間社会の中ではイカンことながいちゃ。おら、いつも、昔からそう思うとるげん。

大工やらせりゃものすごく上手いとか、ハンコ彫らせりゃ上手いとか、笛吹かせりゃ上手いとか、ギター弾かせりゃ上手いとか。やっぱその本当に一生懸命やっとるやつは、大体共通した割合になると思うげんけどね。

そしたらね、自分の不足しとる面にハッと気付いてそいつを充足しようとする。そういうところが出てくるげんちゃね。「あいつすごいやつやな、あんなすごいやつ見たこと無いわ」思うとってもね、自分が仲良うなって話をすると「なるはど、おらもやってやれんことないかもしれんな」そういうような形の雰囲気になってくるげん。1つのことだけを一生懸命やっとるような中にジッと居ることは、果たして良いことながかどうかね。

「おらダラ(バカ)やけど、ハンドボールは3度の飯より好きや」という中学生とか、むちゃくちゃ数学のできる生徒とかは、すんなり氷見高校に入学させてやれば良いんですけどね。そしてスポーツ万能の生徒やら、むちゃくちゃ頭の良い生徒やらが入り乱れて競い合って、非常に幅の広い面白い集団ができると思うんですが、どうでしょうか。

その知的な者だけを仮に全部集めてみたところがね、創造性が豊かになるかいうたら、そうでないがでないかと思うげん。

大工さんでも数学を習ったことも無いがに、ああいう曲線と直線の混ざった複雑な家が、こうやって木と木が合わさって建って行くわけでしょう。ほいでね、こうーやっておわら節歌いながらね、とんでもない発想が出て来とるがでないかね。だから、記憶力と判断力はこりゃ欠かせん条件やけど、そうでない部分、たとえばハンドボールあたりでも練習ばかりしておらんと、やっぱ映画見に行ったりね、違うたことをせんにゃアカンわい。いやな学習せい言うて縛り付けておく必要は無いけどね、何かこう、こっちばっかりやっておっても行き詰まるからね。違ったところからアプローチせにゃ。

自転車のハンドルの『遊び』みたいな余裕が無いげん、心に…。余裕が無いからディフェンスの前へ行って遊んで見せるちゅうことができんし、何かいつも真剣にやっておらにゃプレーで無い、みたいなね。あれ?遊ぶプレーもあるんだ、というようなね。だから、そんなものを全部織り交ぜてね、トータルで面白いハンドボールやりゃ良いげん。

 現役は、良い時は良いんですが、悪いときは本当に悪い。良い時と悪いときの差があり過ぎますね。

「今日は試合や。よーし!」と言って手に唾つけてやってやろう、いう風な練習の時と試合の時のしぼり方ちゅうもんがわかっとらん。いつまでも同じようにズラズラと練習しとって、試合だというのにアクセントがないがいちゃね。だからプレー見ておってもアクセントがないなかい。それがたまたま一番良いときに、ゲームの所に向いておってくれた時に良い結果が出ているのでないかな。今度の大会(H3全国高校選抜北信越地区予選)にしたって、本当に上手にそこへ持っていけるかどうかやね。

 ゲームにおける集中力というのは、生徒にどうやって教えたら良いのでしょうか?

やっぱりあれは「ここまでの練習」「ここまでの強さ」というのと、もう一つ先の「ここからの強さ」とは違うと思うがいちゃ。ここまでは日本中だれでもができる練習なんだけど、その先ができん。技術が上手か下手かじゃない。「ここまで」の先は、だれもがいやな練習ながいちゃね。

たとえばノックで言えば、30本で倒れるところを35本やる。その最後の5本の時に「このあともう5本やれ!」言うたら、なおひどいがいちゃ。その時の上手下手のコミニュケーション、この時に息切れするかせんかの問いながいちゃ。

試合の一番きわどい時ちゃ、一番苦しい時やちゃね。膝に手をついて「立てない」時に教えるのが良い。疲労困憊しておらん時に教えても、一番きわどい一番苦しい時の状態はわからん。「おまえは今倒れそうになっとるけど、あの倒れそうなときのプレーが一番キレイでステキやった。フォームもキレイやったし本当に良かった!」と…。

あの『もうひとつのふんばり』が、日本一になるふんばりなんだ、ということをここのところで言ってやらにゃあかん。それを、こたつに足を突っ込んでみかんの皮を剥きながらどんなすばらしいことを言っておってもダメながい。結局デスクワークではイメージとかフォームとかは伸ばすことができるけど、体も心も全体が感じ取るというプレー、そういったものが必要ながいちゃ。

僕はいつも相撲を取らせたり、円の中にボールを置いて1人がディフェンス1人がオフェンスで、円の中のボールを取るまでやらせたりしたね。これやるとね、5分間で倒れてしまうわ。ディフェンスがこれだけ動いても、それを抜くオフェンスはこーんだけ動にゃならん。だからよっぽど切れが良くないと取ることはできんちゃ。

それから縄を張っておいてその下くぐらせて、くぐったとたんにパーッとパスしてキャッチさせる。要するに、ものすごい窮屈なところをダーッと走ってきて抜けたとたんにバーッとパスをする。キャッチというもんは敵がおるかおらんか、スレスレのところへボールが飛んでくる。そんな何もないところにボールは飛んでこん。それがうつむいたり、あっちむいたりした時やちゃね。

それから、下においてあるボールをどんどんどんどん取っていく練習とかね。どれだけのスピードでボールを取っていけるか、走るのが一番遅い者でも一番速くなったりしてね。足が長くてスラッとしたやつは、ただ走るのが速くても仕事をさせたら遅くなる。仕事をするのが遅いやつは、ハンドボールを教えてもなかなかうまくなれんことを知っておらんと、他のやつが優越感を持てんなかい。

そういうことを計って、そしてでかいやつに混ってフローターで使ってやる。フローターやる時は何でもできんとあかん。本当は背がでかいからできるというもんじゃないげん。平行棒置いて、平均台置いて、跳び箱置いて、マットで転がって、そしてシュートする。そんなトレーニングをすれば良いね、ただ走るんじゃなくて…。

ソ連の軍隊のトレーニングは朝4時に起きて6時間の練習。毎日6時間、どんな練習をしておるかと言えば、銃を持ってダーッっと走って、くぐったり上がったり下へポーンと飛び降りたりしてボーンと寝転がってズドーンと撃つとか、そんなことをテレビでやっておったね。

要するにボディバランスとボディコントロールと集中力、この3つやね。中でもボディコントロールが一番大変やろうね。ボディコントロールができておれば、より広範囲の所に飛んできたボールを処理することができる。手が届けば、ボールを叩き落しておいてすぐ体をグーッとそこへ引きつけられるやつだったら、ボールを相手に奪われなくてもすむ。それだけでも違うわね。必ずしもパスは良いところに来るとは限らんからね。そういうものが最後の勝敗を分ける決勝点だったりするわけや。

「あいつがあのパスを取ったから勝てたんだ」という試合がねー。

  西山はさかんにイメージトレーニングの重要性を言うておるね。自分の見えないところへパスをする。見えないところを見えるようにするのがイメージトレーニングなげん。見えないところまではディフェンスしておらん。だから、見えないところへパスが通れば、相手の一歩先を行くことができる。『見えないところを見る』には、ズーッと全体の流れを読むトレーニングをしなきゃならん。人間の眼は素早い動きに対して、0.17秒間はその動きを「動き」として捕らえることができん。要するに、素早く動いてそこに居なくなっても、0.17秒間はそこに居るものと判断してしまうげん。これを利用してディフェンスのスキを突くがいちゃ。そこにコンビネーションプレーを入れれば、もっと正確に得点までつなげることができるはずやちゃ。そういうような、パスのないイメージトレーニングをせんならん。

  だから見えないところへ正確なパスをいくつ入れることができるかということによって、これからのハンドボールは勝ち負けが決まる。これは私が今考えていることなんで、一生懸命考えれば考えるほど、プレーはもう限りなく広がっていくがいね。「どうすれば良いかなー」といつも考える分けやけど、それをやらせるには、選手一人一人が自分で勝手に何でもやって試して見るような、創造性豊かな選手がそろわにゃあかん。

 そうなるためには、とにもかくにもその人間の力量、持っておる全てのものをちゃんとキャッチできる指導者がおらんとあかん。まちがってキャッチしたらあかんげん。ちゃんとキャッチして方向性を持っておれば、その人に対する係わり方が違ってくるし、方向性を持たない人に対する係わり方も違ってくる。要するに、一人一人に対する係わり方は違うわけだけど、そこまでプレーヤーが楽しんで実行して、実践力としてそれを使うと…。

  今実験の段階で、実際に使われるのはいつの時代やら、というようなことを、よく科学の世界で言うておるけど、人間の世界は、感覚即実践、感覚と実践がピシーッとつながっておる、そういうものにしてやらにゃあかん。体で覚えにゃ…。ここ(頭を指さして)でやるとまずいげんちゃね。こうやったら(パス方向を見ないで)通るパスでも、こうやったら(パス方向を見て)通らんげん。考えたら通らんでパッとやりゃ通る。

  要するにプレーするときは、ココ(体)はすごくプラスになるけど、ココ(頭)はものすごくジャマになるげん。頭は人間のものすごくすばらしいところなんだけど、そのすばらしいやつがえらくジャマをする。これがジャマしなくなるような人間が日本には少なくなってきた。頭にジャマされないで先に体が動いて、後に頭が考えるというヤツは今おらんよ。コレ(頭)ばっかりが先へ行く。体がついていかんヤツはミスが多いげん。特にスポーツでは…。

  アメリカのプロバスケットボールのスター選手であるマジック・ジョンソンが、「どうやったらそんなに上手くパスができるのか」という質問に、「スッと行って、パッとパスをすれば良い。要はパッとすることだよ」というようなことを言っています。タイミングの問題だろうと思うのですが、彼なんかは体が先に動く選手なんだな、と思いますね。

  だからショルダーで縦に入ってきて、バックスイングでかまえて、私の肩の線とディフェンスの肩の線を平行にしておいてもパスは通る。少なくとも今までは肩の線を相手に向けておいてパスをしておった。腕を曲げてパスをしても良いし、伸ばしてパスをしても良い。ディフェンスの腕の長さを頭に入れておいて、長ければ腕を伸ばしてギュッと通すげん。そうすりゃ絶対カットできん。そういうようなものが絶対的にハンドボールの技術であると、そこまで意識を持っていかなければアカンげん。

  「そんな危険なことをしたらダメや」と言うとる間はまだダメなげん。それをやっておる本人にとってみたらぜんぜん危険なことでないんだけど、外から見ると自分ができんもんやから「できんはずや」思うからアカンげん。どれだけできるやつがおるかわからんよ、できるやつはおると思うよ。つま先へドリブルパスしたら絶対カットできん。おらドリブルパスするとき相手の親指のつま先にボールを突くげん。そしたら手が一番遠いげん。だから、そこへポンとパスしたら絶対カットできんわ、実験してみられ。このポイント(つま先を指して)の向こう側でも手前でも、どっちでバウンドさせても手でカットできるげん。手の一番届かん所はどこやとか、そういうことを常に体で考えておらんとアカンがで、そんなもん、理屈でないがいちゃね。

「あいつをやっつけてやろう」「どうしたらあいつは弱るかな」ということを考えたら、必ず弱いところがわかる。そんなもんは本を読んでも書いてないからね。そんなようなハンドボールをしなきゃ楽しくないげんちゃね。しかし、そんなことばっかりやっておると大きなオーソドックスなハンドボールが失われる。オーソドックスなハンドボールばっかりやっておると小技が効かない。両方とも兼ね備えていて、その中で自分のプレーができんとアカン。でっかい動きをしながら、小さい動き、繊細な動きを入れて、定石を入れてね、つまり中盤戦をどう戦うか、終盤戦をどう戦うか、そして最後にはどう始末をつけるか。試合もそういうもんなんで、最後に結論を出すと…。そんなようにしてず〜っとやって、10年もすれば氷見にも良い指導者が出てくるがでないかなぁと思うげん。

パスミス・キャッチミスをする人もいつも決まっていますね。これもどれだけ注意しても直らない。もっと言い方を変えたりしなければ、と思うんですが、言い方を変えたぐらいで直るものなのでしょうか。

自動車でも運転しとる者ちゃ、ブレーキとかアクセルとかこういうもんちゃ見とらんやろ。前見とるやろ、ね。ハンドボールもいっしょながい。全部前見て、世の中を良く見てプレーしとるわけやから、パスミス・キャッチミスするやつは世の中不在のプレーながいちゃ。もうちょっと言うてみりゃ、相手不在ながいちゃ。相手有在やったら、パスするモーションから早もうフェイント掛かっとる。パスする時に相手がカットに出てきてくれたら、その裏へドリブルして行けばもう抜けとるなかい。そんなこと考えとらん選手はみんなカットされるげん。パッ、とわざと取られるようなパスをするげんちゃ。そしたら相手はつんのめって前へ出るげん。その後ろへドリブルして行けば、もうディフェンス一枚抜けとるげん。そんなもん、かんたーんなことながい。(笑)

そういうような「技」をみんなが持たにゃアカンわい。「お前の仕事ちゃパスするだけやなかい。それだけに生きとるさかいパスが全部死んでしもうがい」おら、そう言うげん。パスもすりゃドリブルもしますよと。スキがあったら何でもしますよと。いうようなことは体で喋っとるがいちゃ。口で喋っとると思うからおかしいがで、スポーツは足の爪先から頭のてっぺんまで、人間は情報源ながい。その情報を巧みにキャッチして相手を抜くがい。パスモーションなんかでもやってみて、相手がどう動くか楽しむようにならにゃアカンと思うげん。そういうことは瞬間的パターンやから、あの距離やったら騙すことできんけど、この距離やったらできる。そういうことやちゃ。この距離やったら、あいつは「やりたいなぁー」と、いつもやりたい顔をしとるということを知っとらにゃ。そうすると、パッ!とパスモーションをすりゃ、やりたいやつは必ず出てくるわい。そういうことを見抜くのがハンドボールなげん。相手不在のハンドボールしとっても面白無くてアカンわい。相手は常に自分の前に立ちはだかっとると。そしてお互いに競争して、お互いにやろうとしておると、「わしはそんなやつに対してプレーするのが夜も寝れんほど好きや」と。こんな風にならんとダメやちゃ。ハッハッハー(笑)