このコーナーは東洋の古典から神髄部分を抜き出し、現実生活の指針として役立てようと思い開設しました。



 『鏡の説』  山田方谷


 岐蘇深谷中に村あり。その民いまだかつて鏡あるを知らず。好事者あり。一大鏡を擁して行き、戸々にこれを示さんと欲す。
 一戸に至る。その主、翁兄と友愛篤摯にして兄新たに没せり。すなはち、己が影を鑒視(カンシ)して、兄の霊形を現すなりとおもひ、鏡を擁して大いに哭き、絮語鏤々(シゴルル)止まず。鏡主大いに笑ひ急に鏡を取って去る。
 また一戸に至る。その主は強暴の壮夫にして、弟を相仇視し、久しく往来を絶つ。また一鑒して弟至るとおもひ、大いに怒り、手を戟げてこれに向かへば、鏡中の影また戟す。益々怒り、力を極めて一撃し、鏡たちどころに片碎す。嗚呼また愚かなり。
 抑々茫々たる天地は一大鏡なり。森羅万象は一影子なり。すなはち人の處世接物、恩讐順逆、親疎従違、千境萬界、目前に現るるものは豈に吾が心身の影子にあらずや。しかるに恩を喜び讐を怒り、順を楽しみ逆を憂ひ、親を愛し疎を憎み、従を好み違を悪み、心身を悩乱して底止するところなし。岐蘇村民の愚にあらずして何ぞや。

 何を以ってかその愚を免れん。

 曰く「自ら反って以って心身を求めんのみ」

 山田方谷は備中板倉藩の儒学者兼政治家で、江戸時代末期を代表する大儒聖である。大政奉還の起草文は彼の手による。貧乏板倉藩の財政を立て直し、教化を施し軍備を整えた。藩内に立ち入った者はみな去ることを非常に惜しんだという。その大改革ぶりが伺えよう。 彼は言う。「身の回りに起こるあらゆる現象は自分の心を反映したものである。勝手気ままに動く自分の心に翻弄され、あれこれ悩むのはなんと愚かなことか。それを克服するには、常に我が身を振り返り、身を修め道を行い、誠の自分を探し出すのみである」と。
 つまり、高い理想を掲げ、その実現のために自分はどうあるべきか、どう行動すべきかを常に自らに反問する姿勢が必要だということではなかろうか。クラブ活動においても、仕事においても、理想を高く掲げ、その実現に向けて我と我が身を三省し、為すべきことを為し、為すべからざることを為さざる習慣を持つことこそ、何ものにも動じない「強い自己」をつくることにつながると思うのである。