このコーナーは東洋の古典から神髄部分を抜き出し、現実生活の指針として役立てようと思い開設しました。


『説苑(ぜいえん)』 巻第十一 善説     劉 向


 孫卿曰く、それ談説の術は、斉荘以ってこれに立ち、端誠以ってこれに処り、堅強以ってこれを持し、譬称以ってこれを諭し、分別以ってこれを明にし、歓忻憤満以ってこれを送り、これを宝としこれを珍としこれを貴びこれを神とす。是のごとくなれば則ち説常に行われざる無し。それ是れこれを能くその貴ぶところを貴ぶと謂うと。

 伝に曰く、唯君子のみ能くその貴ぶ所を貴ぶとなすと。

 詩に云ふ、言を易んずること無れ、苟もすと曰ふ無かれと。

 鬼谷子曰く、人の不善なるや、能くこれを嬌むるは難し。これを説けども行はれず、これを言へども従はざるは、その弁の明ならざればなり。既に明にして行はれざるは、これを持すること固ならざればなり。既に固にして行はれざるは、未だその心の善とする所に中らざればなり。これを弁じてこれを明にし、これを持してこれを固にし、またその人の善とする所に中り、その言神にして珍に、白にして分つときは、能く人の心に入る。此のごとくにして説行はれざるは、天下未だ嘗て聞かざるなり。これをこれ善説と謂ふと。

 子貢曰く、言を出し辞を陳ぶるは、身の得失国の安危なり。

 詩に云ふ、辞の繹べるは民の莫めなりと。それ辞は人の自ら通ずる所以なり。

 主父偃曰く、人にして辞無くんば、安んぞこれを用ふる所あらんと。昔は子産その辞を脩めて、趙武その敬を致し、王孫満その言を明にして、楚荘以って慙ぢ、蘇秦その説を行うて、六国以て安く、カイ通その説を陳べて、身以て全きを得たり。

 それ辞は乃ち君を尊くし身を重くし、国を安んじ性を全うする所以の者なり。故に辞は脩めざるべからずして、説は善くせざるべからず。


 劉向は漢室を創業した高祖劉邦の異母弟である劉交(楚の元王)の四世の孫にあたる。宣・元・成の三代の天子に仕え、大夫の官に列すること三十余年、権力闘争の狭間で波乱万丈の人生を送った。この『説苑』はその時の経験から、様々な相手を説得するための説話や寓話を集めたものであり、そういった意味で『説苑』と名付けられた。

 訳してみよう。
荀子が言った。「そもそも人を説得する術は、中正で厳粛に自説に立脚し、正しく誠実に自説をふまえ、強固な意志で自説を支持し、効果的な比喩を使って自説を説き、分析をして自説を明白にし、感情をこめて自説を伝え、自己の主張を宝物のように大切に扱い、自らそれが神のお告げのように謹むようにすれば、説得は常に成功する。このようなことを、真に大切なものを大切にするというのである」と。

 解説には、「ただ君子だけがよく大切なものを大切にすることができる」と言っている。

 詩経には、「たやすくものを言うな。ただかりそめなのだと言うな」と言っている。

 鬼谷子は、「人が正しくない時に、これを矯正することは難しいものである。正しい道を説いても実行されず、言っても従わないのは、その弁が明快でない実行されないのは、その所説をあくまでも支持しないからである。所説を固く支持してもなお実行されないのは、相手の心が良いと考えている点とこちらの主張とが一致しないからである。自説を述べ、明確にし、支持し、固守し、そして相手の考えている点と一致し、その言説が神の言葉のようであり、貴重であり、明白である時は、充分に相手の心に納得されるものである。このようにして説得が成功しないことは天下広しといえどもいまだこれまでに聞いたことが無い。これを理想的な説得というのである」と言っている。

 孔子の弟子の子貢は、「言葉を口に出して述べることは、その人間の幸・不幸を決め、その国の安危を決める。言葉は慎まなくてはならない」と言っている。

 詩経に、「言辞が安らかで民にとってよろこばしいものであるならば、民の心はおのずから定まろう」とも言っている。言葉は正しく誠意のあるものならば、おのずから相手に通ずる手段なのである。

 漢の主父偃は、「弁の立たない人物は、どうして登用できようか」と言っている。孔子の弟子の子産は立派な弁舌によって大国晉の趙武に尊敬され、周の大夫の王孫満が言辞を明確にすれば楚の荘王は反省し、蘇秦は自己の主張を実践して大国秦の脅威から逃れ、カイ通はその説を述べて罪を逃れ身を全うすることができた。

 そもそも言葉は主君を尊くし自分の価値を増し、天性を全うする手段である。だから言葉はよく勉強しなければならず、主張は立派にしなければならないのである。

 昔の人々は「言葉」を非常に大切にした。それによって小国は大国と堂々と渡り合い、個人は自分の生命を自分で守ってきた。これは我々がハンドボールを指導する場合、家庭を円満に運営する場合、企業活動を行う場合、いずれの場合にも同様に当てはまることである。
「選手とのコミュニケーション」が指導のすべてであると言っても過言ではない。荀子が言ったように自信と確信に満ちた言葉で選手たちを導き、ハンドボールというスポーツを介して自立した、たくましい人間に育てるために、日々努力していかねばならない。勝つも良し、負けるも良し、その時生じた心の変化にどう応えてやるか、これが大事である。その時の指導者の「言葉」が選手の人格を形成する。「言葉」はおろそかにはできない。