松本城(深志城)跡
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築城 永正元年(1504)
築城者 島立貞永(小笠原氏一族)
場所 長野県松本市丸の内
観覧時間 AM8:30〜PM5:00
観覧料 大人 600円、小中学生 300円
連絡先 TEL 0263-32-2902
交通 JR中央本線松本駅下車徒歩15分

永正元年(1504)島立貞永(小笠原氏一族)の築城で、天文19年(1550)に甲斐の武田信玄に攻められ落城する。
深志城は武田方の信州拠点になり、武田の重臣馬場信春が城代を務る。

武田氏滅亡後に小笠原貞慶(徳川家康家臣)が入城し、城を改修して松本城と改める。

家康の関東封じ後に8万石(後に10万石)の城主として入城した石川数正(徳川家康→豊臣秀吉家臣)が文禄年間(1592〜95)に着工し、慶長2年(1597)石川康長(数正嫡男)が天守閣(五層六階)を完成させる。

後に水野氏、戸田氏など城主が代わり、明治まで徳川家家臣が城主になる。

昭和11年(1936)4月20日に天守・乾小天守・渡櫓、辰巳附櫓・月見櫓の5棟が国宝に指定される。
現在は5層天守閣(国宝)・二の丸太鼓門・本丸黒門が、本丸一帯に復元されている。
松本城は、姫路城、彦根城、犬山城と共に四つの国宝城郭のひとつです。
石川数正と言うと裏切者として有名ですが、数正は幼少期から徳川家康に仕え、家康の人質時代も行動を共にし、徳川家康の外交折衝役を務めたが、1585年突如として家康のもとから出奔して豊臣秀吉の元に逃亡?したと言う。1593年病死。

その後 石川康長(数正嫡男)と石川康勝(数正次男か康長嫡男)の代に、徳川家康によって改易される。
石川康勝は大阪夏の陣で真田信繁軍の浪人大将(元石川家臣団を率いる)として天王寺・岡山の戦いで戦死する。。

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