十二町潟を拓

十 二 町 潟 を 拓 く
十二町潟排水機場はこちら 昔の十二町潟周辺の様子はこちら
このぺーじは、富山県高岡農地林務事務所・氷見市・富山県農村環境創造基金により作成された副読本(十二町潟を拓く)の内容を許可をえて記載しています。



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左の表紙を右クリックし対象をファイルに保存】を選び、デスクトップなどに保存してください。

小学4年生程度の社会科の参考資料として利用して頂ければ幸いです。
副読本の在庫がありますので、カラープリンタが無い場合などは、お問合せください

副読本は、pdfファイル形式です。ご覧になるには、Adob Readerが必要です。表示できない場合は、左のマークをクリックし指示に従ってプログラムをダウンロードしてください

1.大昔の十二町潟
1−1.縄文・弥生・平安時代
 縄文時代(1万2000年前〜2300年前)の中ごろには、朝日貝塚から出土する貝殻はすべて海のものばかりであることから、十二町潟は海(布勢水海)であったといわれています。
 その後縄文時代の後期から海の水位が低くなり、海岸線が現在より100m〜200mも沖に退いていき、氷見砂丘は少しずつ大きくなっていきました。その時に十二町潟は海とはなれ、潟の水は
※淡水となっていきました。
 弥生時代(2300年〜1700年前)が過ぎ、平安時代(1300年前)になると海水位は少しずつ上昇しほぼ今と同じくらいになったのですが、土砂の※堆積が少なかったので、そのころの布勢水海(現在の十二町潟)の面積は相当広く、当時の人々は魚をとったり舟遊びをしたりしていました。
 それから1200年の間に仏生寺川,神代川,万尾川による土砂の堆積によりしだいに埋もれて布勢水海の面積が小さくなっていったのです。

1−2.大伴家持の時代
(1)現在の十二町潟はごく小さい潟ですが、大伴家持の時代(1300年前)には「布勢水海」と呼ばれる大きな湖でした。
(2)大伴家持は746年kら751年に越中の国の※国守として奈良の都から※越中国府(現在の伏木)に移り住んでいました。大伴家持は万葉の歌人でもあります。
国守としての仕事が休みのときにしばしば布勢水海に家来達や遠く都からたずねてきた友と舟遊びをしたり、歌を詠んだりしていました







2.水害とのたたかい
2−1.新川ができるまで
 平安時代から江戸時代までの十二町潟の排水路は、現在の湊川にでて富山湾に流れていました。しかし湊川は川幅が狭く急カーブが2ヶ所あったため、大雨の時には田んぼに水がつき、人々は大変苦労をしました。
 そこで、新しい排水路を作るため3度も※加賀藩にお願いしましたが、下流の氷見町からの反対にあい、なかなか実現しませんでした。
 しかし氷見町にも水害があったことで反対者が少なくなり十二町村の※豪農
矢崎嘉十郎」が何度も願い出てやっと許可がでました。そして明治元年に新川を掘る工事が始まりました。川の大きさはおよそ上幅22m、下幅18m、深さ4m。当時は機械がないのでクワなどを使い人手で、74,434貫(今のお金で約100億円)の費用をかけて明治2年に完成しました。

2−2.稲作の苦労
 新川ができたことによって、十二町潟の排水は昔に比べたいへんよくなってきましたが、それでも1年に1・2度は稲が水につかりました。そのような水害をなくすために、曲がりくねった仏生寺川をまっすぐにし、※湿田※乾田にするよう努力したのが陸田家8代目の九左衛門でした。




















3.湿田から乾田へ
3−1.排水機場・潮止水門
 明治19年までにはおよ120ha、昭和21年にはおよそ500※haまで開田が進みました。昭和21年からは現代的な工法で※潮止水門※排水機場の建設が国や県により進められ、よりいっそう乾田化が進みました。
 現在、国で作った大きな排水機場のおかげで、元十二町潟であったところに工場や家が建てられるようになったのです。
排水機場には、すいこみ口の直径が80cmのポンプが1台、2mのものが3台あります



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昔の十二町潟周辺の様子はこちら

3−2.用水路と排水路
(1)用水路について
十二町潟はいつも10cm〜30cmの水位があり、あまり用水に苦労しませんでした。それでも夏になると、用水不足になり、足踏み水車やバケツで水をくみ入れていました。水不足は下流に行くほど激しくなり、用水路の※堰を高くして水位を上げ田に水を入れるように工夫しました。それでも、水によるもめごとよくおきました。
現在では、福岡町に五位ダムができ、そこから用水をひいてきて十二町の近くにある岩田池、尾谷池、矢田部谷内池などのため池に用水を貯め水不足を解消しています。
(2)排水路について
十二町には大きな排水路として万尾川と仏生寺川があります。万尾川については、現在富山県でえ下流側から改修して、田や宅地に水がつかないようにしています。
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4.水生生物を守る
4−1.水生の植物
 十二町潟には、天然記念物のオニバスがありますが、最近では60cm〜70cmにしか育たず、数も減少しているので氷見市や地元の小学校などにより保護されています。
オニバスのほかにも、ヒシやサンショウモなどいろいろな水生植物が生息しています。




平成16年に、十二町潟水郷公園内の池に1mを超えるオニバスが自生しているのが発見されました。

十二町潟水郷公園内のオニバスの池のオニバスの成長とあわせ、オニバス日記を作成してゆきたいと思っております。
日記は5月下旬からの予定です。

4−2.湿地の魚たち
 十二町潟に沿って流れる万尾川には※天然記念物イタセンパラがすんでいるいことが平成元年の調査でわかりました。そのほかにも、タイリクバラタナゴ、ヤリタナゴ、ナマズ、ドジョウなど多くの魚がすんでいます。

4−3.現在の十二町潟の様子
現在の十二町潟は、細長く小さくなって、水郷公園として昔の姿を残しています。
万尾川についても水生生物を守る工夫をしながら改修工事を進めています。

4−4.水をきれいに
 きれいな川の水を守るために、富山県では下水処理場をつくり、生活の排水や工場からでる排水をきれいにして、川の水が汚れないようにしています。
下水処理場が、水をきれいにする仕組みは氷見市ホームページ内(環境浄化センター)で紹介されています。
氷見市上下水道課(環境浄化センター)

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