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虻が島〜知られざる歴史


虻が島は氷見市中田の沖にある島で、面積約1300uの本県最大の島でもある。島は東西二島からなり、東を「タブノキ島」、西を「マツノキ島」ともいう。低平で、さほど広くもない島ではあるが、ここが戦国史の舞台の一つであったことを知る人は少ない。

 天正十年(一五八二)六月、能登奪回を企てる温井景隆・三宅長盛らが、上杉勢とともに越後から船で中田に上陸し、石動山に向かった。本能寺で信長が討たれ、大乱のきざしが見えたのに乗じ、上杉景勝が謙信以来の失地回復を図ったのである。しかし、この企ては前田別家・佐久回盛政らの迅速な反撃により、あっけなく潰え去った。

  『三州志』によれば、この時、越後から第二陣が船で虻が島に到着したが、温井氏らの敗北を知り、空しく越後へ引き返したという。このように虻が島は上杉方が中田に上陸する際の目標にされていたぶしがある。

 ところで、この小さな島が、高岡城と深い関係があるとしたら、どうだろう。「一体、なぜ?」と疑問をもたれる人がほとんどに違いない。高岡城跡は現在の高岡古城公園にあたり、慶長十四年(一六〇九)前田利長によって築かれた城だが、氷見市の北の端にある島とこの城がどう結びつくのか?

 実はこの城の冊短冊の一部は、虻が島で採石され、船で海路運ばれた物なのである。現在、高岡城跡に現存する石垣は、本丸虎口の土橋の両側面だが、この石の中に虻が島の石が使われている。

 このことはすでに一九六二年、本倉豊信氏が新聞紙上で指摘されており、私も一九九五年と九六年の二回、島に渡ってその点を確認できた。この二回の調査で、島の波打ち際を中心に一部は海中も含め、かなりの石垣用の石が残されていることがわかった。これらの中には割ったばかりえ、搬出するばかりの物など、さまざまな状態の物が見受けられる。注目されるのは、一部の石に残る刻印で、その中には高岡城の石垣に見られる刻印と同一のものがあり、虻が島からの搬出が裏付けられる。おそらく船で海から小矢部川をさかのぼり、木町付近に着き、そこから陸路城まで運んだのであろう。

上記内容は、氷見市教育委員会資料より抜粋