摂津高槻城跡 |
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築城 | 正暦元年〜5年(990〜994) |
築城者 | 近藤忠範 |
場所 | 大阪府高槻市城内町 |
交通 | 阪急電鉄京都本線高槻市駅下車徒歩10分 |
正暦元年〜5年(990〜994) 豪族近藤忠範が平安中期に築城し、大阪の前線基地として重要な城になる。 永禄12年(1569) 和田惟政近(信長家臣)が近江和田城から入城する。 元亀2年(1572) 和田惟政近は白井河原の合戦で戦死 和田惟長(和田惟政の嫡男)が跡を継ぐ。 元亀4年(1574) 和田惟長(高槻城主)を追放して高山右近は城主となる。 高山(飛弾守)右近はキリシタン大名と知られる。 天正8年(1580) 高山右近は高槻城から播磨 船上城(6万石)に転封する。 慶長20年(1615) 内藤信正(家康家臣)が近江長浜城から4万石で入城する。 元和3年(1617) 内藤信正は伏見城代を務める。5万石に加増 元和5年(1619) 内藤信正は大坂城代を務める。 寛永3年(1626) 内藤信正は大坂城にて死去。59才 慶安2年(1650) 永井直清(家康家臣)3万6千石で入城する。永井氏は13代居城して明治に至る。 廃藩置県で、城はに破棄され本丸跡は現在高槻高校になって、三の丸跡は高槻城址公園になっていて石碑・説明看板があり、城址公園近くの本行寺に移築門が残っている。 |
高山右近は高槻城から播磨明石(明石城)6万石に移るが、キリシタン追放令によって領地(播磨明石6万石)を奪われる。 後に加賀藩(金沢城)の客将となり、禄高3万石(末吉城)で、20数年間加賀藩に住み金沢城・高岡城の改修・縄張りをする。 慶長19年(1614) 幕府からマニラに国外追放される。 子孫は現在も羽咋郡志賀町末吉に住んでいて、高山右近の墓地は羽咋郡志賀町末吉(末吉城)にある。 |
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