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高山右近は松永久秀家臣 高山飛騨守友照の嫡男 ■永禄11年(1568)9月 織田信長(岐阜城)の家臣になる。 ■元亀4年(1574) 父飛騨守と共に・・・仔細省略・・・高槻城主になる ■天正7年(1579)11月 父飛騨守は信長によって・・・仔細省略・・・越前に追放され 高山右近は飛騨守となる。 ■天正8年(1580) 高山右近は高槻城から播磨 船上城(6万石)に転封する。 □天正10年(1582)6月2日 本能寺の変で、信長死亡 ■天正11年(1583) 賤ケ岳の戦で、羽柴秀吉(姫路城)に味方して岩崎の砦を守る。 ■天正15年(1587)5月 豊臣秀吉(大阪城)の改宗命令に従わなかった高山右近は、キリシタン追放令によって領地播磨明石(船上城6万石)を奪われる。 ■天正16年(1588) 前田利家(金沢城)に2万6千石の知行地(末吉城)を与えられる。 剃髪して南坊等伯と称して客将・参与として藩政に加わり、金沢城・高岡城の修築にも携わる。 □慶長3年(1598)8月 豊臣秀吉伏見城で死去62才 □慶長4年(1599)3月 前田利家大阪城で死去63(62)才 ■慶長5年(1600) 関ケ原の戦いでは利長(加賀藩2代藩主)に従って働く ■慶長7年(1602年)11月 高山右近の屋敷は金沢市広坂(旧金沢大学付属小・中学校跡)にあったが、金沢城炎上で、金沢市尾山町(現在の金沢貯金事務センター)に移る。 ■慶長10年(1605) 金沢で南蛮寺を建立する。 ■慶長19年(1614) 横山長知(加賀八家・富山城代)嫡男の横山康玄は高山右近の娘を妻にしていたが、右近が国外追放の時に離縁している。 ■慶長19年(1614)9月24日 徳川家康のキリシタン禁教令によって、妻(ジュリア)・子供ら100余人の教徒と共にフィリピン・マニラへ追放される。 ■元和元年(1615)2月5日 高山右近はマニラで熱病で倒れ、63才で生涯を終える。 家族は加賀藩から与えられた知行地の末吉(末吉城)に住み、現在も町内に子孫が住んでいる。 末吉(末吉城)には高山右近墓地があり、高山右近記念公園にブロンズ像や石碑がある。 七尾市本行寺境内(小丸山城)に高山右近像が建立され、右近古道や右近修道場跡がある。 高岡古城公園(高岡城)にもブロンズ像がある。 ■高山右近の子孫は石川高山家・福井高山家・大分高山家(高山英明は元大分市長)がある。 |
■前田利長(2代藩主)は洗礼を希望するほど熱心で、金沢市尾山町(現在の大谷廟所)付近一帯に内藤徳庵、宇喜多休閑らのキリシタン高禄武士たちに屋敷が与えられ キリシタン武士屋敷と呼ばれた。 ■津田玄蕃(準四家大名家老)の夫人(海津)、長好連(加賀八家)の夫人(前田利家の8女福姫)などの高禄の夫人がキリシタン信者だった。 |
■津田玄蕃(津田刑部系、斯波氏末裔)は利家家臣→利長家臣で禄高は8千石→1万石で人持組(加賀藩家老)を務める。 ■金沢城大手門の前にあった津田玄蕃邸は金沢健康センターにあったが、移築されて現在は兼六園管理事務所分室になっている。 |
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