京都五山
京都の最高位の五大官寺。
三代室町将軍足利義満が相国寺を建立した後、南禅寺を五山の上位に昇格させ、序列を定めた。
なお五山の上位の南禅寺を含めてすべて列挙すると、南禅寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺となり、鎌倉初期から室町初期にかけての創立となっている。
南禅寺
京都五山の上位
瑞龍山と号する臨済宗南禅寺派の大本山で、太平興国南禅々寺という。
はじめこの地は三井寺の別院最勝光院があったが、年久荒廃するに及んだ。
鎌倉時代の亀山天皇はこの地の風光を愛され、御母大宮院の御所として離宮禅林寺殿を造営され、はさらに一宇を造営された。
前者を下ノ御所、後者を上ノ御所と称し、今の修学院離宮のごとく、上宮と下宮に二宮に分かれていたと伝えられ、上ノ御所には持仏堂として南禅院の名が付けられた。
比叡山延暦寺
元京都五山の上位
比叡山延暦寺は伝教大師最澄によって開基。天台宗総本山で、何回も災害にあったが、復興の度に規模も大きくなる、
大徳寺
元京都五山の上位
京都五山の上位にあったが、応仁の乱で消失してその後一休禅師によって 再興される。
天竜寺
京都五山の第一位
寺は吉野の行宮で憤死された後醍醐天皇の冥福と南北朝の戦に犠牲となった
人々の霊を慰めるため、足利尊氏が夢窓国師を請じて建立した臨済宗天竜寺派の大本山で、正しくは霊亀山天竜資聖禅寺と号する。
はじめこの地は嵯峨天皇皇后橋嘉智子が旧嵯峨院の別館を捨てて禅刹とされ、壇林寺があったが、平安中期の一条天皇頃には荒廃するに至った。
その後、鎌倉時代の後嵯峨上皇によって仙洞亀山殿が造営され、嵯峨殿ともいい、その規模は、今の天竜寺を中心とし、北は野宮神社、南は大堰川畔におよぶ広大な地域を占め、自然の風光をそのまま離宮内にとり入れたものであった。
相国寺
京都五山の第ニ位
相國寺は正式には萬年山相國承天禅寺といい、室町幕府3代将軍足利義満が、後小松天皇の勅命を受け、約10年の歳月を費やして、完成した一大禅苑で、夢窓国師を開山とし、京都五山の上位に列せられる夢窓派の中心禅林である。
その後応仁の乱の兵火により諸堂宇は灰燼に帰したが、度重なる災禍にもかかわらず禅宗行政の中心地として高僧を輩出し、室町時代の禅文化の昂揚に貢献した。
後に豊臣氏の外護を受け、豊臣秀頼が現在の法堂を再建し、徳川家康も三門を寄進した。
建仁寺
京都五山の第三位
日本最初の茶の輸入で知られる栄西が開山して、京都で最も古い禅宗寺院であり、建造物のなかで、方丈と勅使門は重要文化財である。
方丈は安芸国安国寺のから移建したもので、勅使門は鎌倉期の建物で、美術品では、俵屋宗達筆による風神雷神図が国宝指定を受けている。
このほか、桃山時代の書画(重要文化財)が多数寺宝として保存されている。
東福寺
京都五山の第四位
京都五山の第四位の臨済宗寺院、東福寺は京都駅東南方向にすぐ 塔頭寺院25院もある広大な寺で(臨済宗大本山)国宝の三門や禅堂、浴室、仁王門等々多くの重文も見所。
万寿寺
京都五山の第五位
寺は下京区万寿寺通高倉にあった六条内裏の中に建立された六条御堂が起こりで、
鎌倉時代の十地上人覚空とその弟子慈一房湛照(宝覚禅師)によって、浄土教を修する寺となったが、その後浄土教を捨てて禅宗となり、名も万寿禅寺と改めた。
往時の規模については明らかにし難く、 境内には多くの糸桜があったことだけは知られるが、庭園については不明であリ、
市中大火に罹災し、寺運は次第に衰微するに至り、今はそのところを失って明らかにしないが、門前九条通りより東福寺境内に入る参道の東側の地と推定される。
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