宮崎城跡
呉東新川地区トップ

築城 寿永元年(1182)
築城者 宮崎太郎長康
場所 下新川郡朝日町城山
交通

案内板 本丸跡

木曽義仲方の豪族宮崎太郎長康が鎌倉初期に築城したと言われ、県内最古の山城で、越中東の重要な要になり、宮崎城の出城には横尾城・泊城・南保城・宮崎館・入善館がある。太郎長康の孫、定範の時代に承久の乱(1219〜1222)が起こり、宮崎氏は滅亡する。

後に越後の上杉謙信(春日山城)が支配し、越中攻略拠点魚津城の中継として重要な役割をしていたが、支配が天正13年(1585)佐々成政(富山城)になり、天正15年(1587)利家嫡男前田利長(守山城主金沢城)に代る。
城代の高畠(石見守)定吉(加賀藩の城代)は境関所の整備にともに文禄4年(1595年)廃城する。
現在本丸跡・二の丸跡は公園になっている。

呉東新川地区トップに戻る