弓庄城跡 |
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築城 | 南北朝時代 |
築城者 | 土肥実平の子孫 |
場所 | 中新川郡上市町 |
交通 |
本家土肥氏(弓庄城) | 分家土肥堀江氏(堀江城) | 分家土肥柿沢氏(柿沢城) |
案内板 | 本丸跡 |
豪族(在地領主・地頭職)土肥氏は中新川郡(滑川市・水橋・上市町・立山町・富山市)一帯を治め所領は5万6千石と言われ、弓庄城の出城には柿沢城がなり、詰城は千石山城・茗荷谷山城になり、支城には高原城があり、属城には池田城・猿倉山城がある。 土肥氏は南北朝時代の相模国土肥郷の出身で、源平合戦に活躍した土肥次郎実平の子孫といわれ、建長の頃(1249〜55)地頭職として越中へ入り、在地領主化する。 後に本家土肥弓庄氏(土肥維時)と分家土肥堀江氏(堀江頼平)(堀江城)との二つの系統に分かれ、後に分家土肥柿沢氏(柿沢城)と3家になり、土肥氏最盛期の領地の石高は七万石とも十万石と言われ、この頃は分家土肥堀江氏(堀江城)の土肥政繁が、弓庄城主になっている。 上杉景勝方(春日山城)の弓庄城主土肥政繁は 天正11年(1582)佐々成政(富山城)との戦いに敗れ、越後(春日山城)に逃れ弓庄城は廃城となった。 |
■弓庄城の土肥氏と末森城の土肥氏(七尾城の能登畠山家臣)とは姻戚関係はあるのか? 京都で室町幕府に仕えた土肥氏の一族だと思うが? |