神保氏(畠山家臣)系図
守山城(呉西高岡地区)
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神保氏張について 神保氏系図 越中守護職一覧 3-2-4



個人的な解釈で、分かり易く神保氏を三氏に分けました。

増山(増山城)神保氏 勝山(勝山城)神保氏 守山(守山城)神保氏
★神保長職 ★神保総誠 ★神保氏張


神保氏三氏のその後

増山神保氏 ★神保長職は出家して名を宗昌と改める。
神保長住(神保長職の嫡子)は織田信長(安土城)の食客となるが、後に徳川の旗本(俸禄900石)となり、東京神田小川町に神保長住と嫡子の神保長治(伯耆守)は屋敷を構える。

正徳2年(1712年)に佐渡奉行となる。
神田小川町の屋敷(995坪)に面した道路が「神保小路」と呼ばれた事から明治入って神保町と呼ばれた。

勝山神保氏 ★神保総誠・長頼(神保総誠の嫡子)は弘治元年〜永禄3年
(1555〜1560)弘治の内乱(能登の合戦)で戦死する。


守山神保氏 ★神保氏張・氏則(氏張の嫡子)は後に徳川家臣となる。
下総国香取郡に2千石を与えられ、江戸城牛込御門近くの番町(千代田区西部)に屋敷を構える。

江戸時代将軍を直接警護する大番組(一番組から六番組)の屋敷があった事から番町と呼ばれる。

■神田神保町は皇居の北側(平川門)に位置し、学校・予備校などが多い。
教員だった岩波茂雄が、大正2年2月に起きた「神田の大火災」の焼け跡の神保町に古書店を開き、大成功を収める。
これが岩波書店の起こりで、岩波の成功により教養人・大学生が神保町に足を運ぶようになったため、一誠堂古書店、東京堂等の店舗新設する。
また読書の場を提供するカフェを開業する者が相次いだ

■神田町駿河台に時代劇でお馴染み天下のご意見番大久保彦左衛門の上屋敷があり、晩年は港区白金台の下屋敷(1万2,000坪)に住んだ。
下屋敷跡は料亭壺中庵から現在有名な八芳園(庭園結婚式場)になっている。

■江戸城牛込御門(現在のJR飯田橋駅前)内五番町一角の四谷怪談のお菊で、有名な
番町皿屋敷(火付盗賊改・青山播磨守主膳)は創作です。
番町伝通院に、この「菊」のモデルとされる女性の墓があったが、大正時代に伝通院近くの麹町栖岸院へ移転して墓は丁重に扱われている。


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