増山城跡 |
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増山(増山城)神保氏 | 勝山(勝山城)神保氏 | 守山(守山城)神保氏 |
★神保長職 | ★神保総誠 | ★神保氏張 |
築城 | 元弘元年南朝(1331) |
築城者 | 高樫光信(越中守護) |
場所 | 砺波市増山一の丸 |
交通 | JR城端線砺波駅バス増山行き増山下車10分 |
大手口跡 | 一之丸跡 | 二之丸跡 |
上杉謙信に攻められ 神保長職の 妻子が入水自殺 したとされる井戸が 貴重にも残っている。 |
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鐘楼堂跡 | 入水井戸跡 |
増山城は松倉城(魚津市)・守山城(高岡市)と共に越中三大山城と言われ、増山城を守る者は砺波の東西を制すと言われていた。 高樫光信(越中守護)が南北朝初期に築城し、足利尊氏(北朝方)の弟直義(南朝方)に味方していた越中守護桃井直常(庄ノ城)の居城になり、後に日宮城の神保氏職(射水・婦負郡守護代)の本城として戦国末期まで重要な城だった。 越中は永禄2年(1560)・永禄3年(1561)・永禄4年(1562)・永禄5年(1563)・永禄7年(1565)・天正4年(1576)上杉謙信(春日山城)に攻められる。 元亀2年(1571年) 神保長職は武田派の長住(長職嫡男)・神保長国(長職3男)神保孝続らを追放して長城(長職次男)を嫡子に立て 出家して名を宗昌と改める。 元亀3年(1572)〜天正5年(1577) 神保氏家中が上杉派(神保長職・神保覚広・神保昌国・小島職鎮・安藤職張・水越職勝)と武田派(神保長住・水越勝重・寺島職定)に分かれ争うが、上杉派が勝利する。 天正9年(1581) 上杉謙信死後上杉景勝が越中に進出する。 増山城は上杉謙信(春日山城)→佐々成政(富山城)→前田利家(金沢城)と支配が代わる。 天正13年(1585) 中川(武蔵守)光重(加賀藩の城代)が城代となり、増山城の出城・支城に城番を置く。 慶長19年(1614)頃か?元和元年(1615)の一藩一城で、廃城になる。 増山城の支城・属城には・富崎城・日宮城・小泉城・尾畑城・隠尾城・庄ノ城・池田城・小島城・津毛城(上新川郡大山町)・西岩瀬城(富山市)・鞍川城・木谷城(氷見市)・水谷城(氷見市)・三角山城(氷見市)・獅子頭城(氷見市)・千九里城(氷見市)・宇波城(氷見市)などがあり、増山城の出城には亀山城・滝山城がある。 ■増山城の支城・属城は氷見に多くあり、守護職桃井直常(庄ノ城)の時に多く築城されたが、能登守護職の吉見氏(能登部城)・畠山氏(七尾城)との戦闘のための臨時的築城が多く 城と言うより砦のようなもので、城主は在地領主・地頭か本城から守将が来ていた。 |
2001年7月に訪れる。 |
県民公園頼成の森を過ぎて、矢印看板から左折して2kmぐらいに増山城址の案内板がありますが、ちょっとしんどいですょ(−−;) ■県民公園頼成の森は水バショウの群生地で知られている。 |
■「能登神保総誠(勝山城)」と「越中神保氏張(守山城」と「越中神保氏職(増山城)」は同じ神保一族(神保氏系図)になる。 ■上杉謙信(春日山城)に攻められ敗北した神保長職は出家して名を宗昌と改める。神保長住(神保長職の嫡子)は織田信長(安土城)の食客となるが、織田信長に・・仔細省略・・追放され、後に徳川家の旗本(俸禄900石)となり江戸に住む。東京神田の神保町は、神保屋敷(995坪)があった所から神保町と呼ばれている。 |