松倉城跡
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築城 建武2年(1335)
築城者 普門蔵人利清(越中守護)
場所 魚津市鹿熊
交通 国道8号を府道33号線を山方向に曲がり車で30分

遊佐氏(高岡・砺波郡守護代) 神保氏(射水・婦負郡守護代) 椎名氏(新川郡守護代)

案内板 本丸跡

松倉城は守山城(高岡市)・増山城(砺波市)と共に越中三大山城と言われ、山に築かれた越中最大の山城。

松倉城は室町初期の建武2年(1335)普門蔵人利清(越中守護)によって築城されたと言われているが、定かではない。

後に畠山持国(能登越中・紀伊・河内の守護兼任)に新川郡一帯(入善町・朝日町・宇奈月町・黒部市・魚津市・滑川市)を治めるように命ぜられた椎名氏(新川郡守護代)の居城となり、所領は6万5千石と言われ、人口三万人の城下町として栄え新川地方の中心となっていた。

松倉城の出城には魚津城小沼城支城には升方山城坪野城水尾山城北山城・金山谷城があり属城は内山城若栗城仏生寺城・水尾南城・蓑輪城・森野城などがある。

松倉城主の椎名康胤は上杉謙信(春日山城)に敗れ、松倉城落城後、遊佐氏(砺波郡守護代)の客将として蓮沼城に在城する。

天正13年(1585)
佐々成政(富山城)が魚津城に入城し、松倉城は新川地方の中心から外れる。

天正15年(1587)
佐々成政が肥後に移ってから利家嫡男前田利長(守山城主金沢城)(加賀本藩系図)の支配になり、青山佐渡守吉次(魚津城代)の家臣が城番になり、慶長年間の初めに廃城になる。
松倉城と魚津城は二城で、一城の役割を果たしていたと言われ、比翼連理の関係ではなかったかと?

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