大聖寺城跡
南加賀「小松地区」トップ
加賀本藩系図 七日市支藩系図 富山支藩系図 大聖寺支藩系図

築城 鎌倉時代後期
築城者 狩野氏
場所 石川県加賀市大聖寺萩生錦城山公園
交通 JR北陸線大聖寺駅下車徒歩?分

大聖寺城は狩野氏(在地領主・地頭)の築城で、支城には小松城虚空蔵城今江城があり日谷城津葉城は出城になる。南加賀一向衆(浄土真宗本願寺)の拠点になる。

狩野氏は加賀守護職冨樫氏(高尾城)の家臣で、冨樫氏滅亡後に越中氷見南部(鞍骨山城)に逃れると書かれているが、資料不足で詳しい事は不明。

弘治元年(1555年)
大聖寺城は越前朝倉氏(一乗谷城)の加賀侵攻で大聖寺城・日谷城・黒谷城は焼き払われる。

天正3年(1575年)
織田信長は加賀侵攻開始の際に大聖寺城・日谷城を修復する。

天正8年(1580年)
柴田勝家(北の庄城)家臣の拝郷家嘉が城主になる。

天正11年(1583)
賤ヶ岳の合戦で、羽柴秀吉(姫路城)家臣の溝口秀勝が大聖寺4万4千石の城主になる。

慶長2年(1597)
羽柴秀吉(大阪城)家臣の山口宗永が城主になる。

慶長5年(1600)9月
関ヶ原の合戦の時に山口宗永は前田利長(金沢城)に大聖寺城を攻められ自害する。

慶長5年(1600)10月
加賀2代藩主前田利長(金沢城)の支配になり、津田(遠江守)重久が城代となり、大聖寺城の出城・支城に城番を置き加賀市・江沼郡を治める。
津田重久(加賀藩の城代)は後に加賀本藩2代利長の参謀になる。

元和元年(1615)一藩一城で廃城になる。

寛永16年(1640)
加賀藩3代藩主前田利常の4男利治が、大聖寺支藩(7万石→10万石)になる。利治は城を築かず陣屋を構え 南加賀の加賀市・江沼郡・越前の一部を治める。、14代前田利鬯で、明治になる。

城跡は現在の錦城山公園となっている。
■北加賀一向衆(浄土真宗本願寺)の拠点は金沢御坊(尾山城)になる。

■3代前田利直の弟利昌(大聖寺支藩系図)に新田1万石を分封するが・・・仔細省略・・・利昌は切腹する。

■大聖寺支藩は初めは5万石から7万石になり、

九代前田利之は江戸城中での詰所(7万石以下・大名の家格)だ・・・仔細省略・・・と言う理由から金沢藩より、新田・越前嶺北の一部・蔵米など3万石を加増してもらい大広間詰(10万石以上)詰所になる。

11代利平は参勤交代など格式で出費のため 3万石を返上しようとした。


加賀南の守城

加賀南の守城 加賀北東の守城

城名 年号 築城者 備考
大聖寺城 鎌倉時代後期 狩野氏 加賀南の守城 本城
小松城 天正年間 若林長門 支城
虚空蔵城 冨樫幸千代 支城
今江城 冨樫氏 支城
津葉城 鎌倉時代 狩野氏 出城


小松地区トップに戻る