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■利家5男前田(大和守)利孝は 慶長9年(1604)江戸に前田家の人質として送られ、同じように人質として慶長5年(1600)江戸にいた芳春院に育てられる。芳春院と共に江戸にいた村井長頼(松根城)が前田利孝の教育係りを務める。 ■前田利孝は慶長19年〜慶長20年(1614〜1615)大坂の陣で秀忠に味方し、その功績で群馬上野七日市で、1万石の大名に取り立てられ陣屋を構え、前田利孝は七日市支藩(1万石)の初代藩主になり、12代前田利昭まで続く。 七日市支藩の前田家は代々、大阪城番と駿府城番を務める。 ■1万石は加賀本藩前田家からの分知ではなく幕府からの拝領になるので、分家でも支藩でもなく立藩になるが、家臣は加賀本藩から出行している。 ■七日市支藩の成立と共に家老になる北保坂家(150石〜230石)・南保坂家(100石)と家臣を加賀本藩から出向させる。 家老の禄高(230石)は江戸町奉行所与力の禄高(平均200石)と同じくらい。 ■七日市支藩は加賀藩の参勤交代での重要な中継点になっている。 ■1万石(大名)の禄高を金額計算にすると年 7億5,000万になり、月額 6千250万になる。 抱えるは家来は120名〜150名で、中間や小者など約100名となっている。 女中や下女の人数は? ■前田利孝は本多康俊(近江膳所城主・徳川四天王酒井忠次の次男)の娘を妻にしている。 |
余談 |
陣屋跡は県立富岡高校になっていて、校内に御殿・中門(黒門)・庭園などが、残っています。 加賀前田家の江戸上屋敷(文京区本郷)の赤門(御守殿門・東大赤門)に対し、陣屋の中門を黒門と呼んだと言われている。 校内に陣屋跡が残されている高校は、全国でも珍しい。 七日市支藩の上屋敷は番町五番(江戸城牛込御門内五番町)にあったが、移転する。移転先は本郷邸(加賀藩上屋敷)の一部を分与か? |
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