北の庄城跡
県外城跡トップ

築城
築城者 朝倉頼景
場所 福井県福井市中央1丁目
交通

JR北陸本線福井駅下車?徒歩5分


北の庄城 越前府中城 越前小丸城 龍門寺城
勝山城 丸岡城 越前大野城

朝倉貞景の次男頼景が居館として築城し、一乗谷城(越前守護職)の支城になる。

天正元年(1573)
織田信長(岐阜城)に攻められ一乗谷城と共に落城 朝倉氏は滅亡する。

天正3年(1575)
柴田勝家(近江長光寺城)は越前49万石の居城として入城する。
北の庄城の出城として越前府中城越前小丸城龍門寺城を配置(府中三人衆)する。
支城には勝山城丸岡城越前大野城がある。

天正10年(1582)6月2日
本能寺の変で織田信長(安土城)は割腹自害49才

天正11年(1583)
柴田勝家は「賤ヶ岳合戦」で、羽柴秀吉(姫路城)に敗れ滅亡する。
丹羽長秀(佐和山城大溝城)は「賤ヶ岳合戦」の恩賞として若狭国の他に越前国1国と加賀国の能美郡江沼郡の2郡が加増され、123万石の居城として北の庄城に入城する。

天正13年(1585)4月16日
丹羽長秀は病の床で自決する。
丹羽長重(丹羽長秀嫡男)が123万石を相続するが、羽柴秀吉(大阪城)によって越前国、若狭国を召し上げられ、若狭1国15万石となる。

天正13年(1585)
丹羽長重(丹羽長秀嫡男)は松任城(4万石)の小大名に転封される。

天正13年(1585)
堀 秀政(信長→秀吉家臣)は佐和山城から北の庄城(18万石)に入城する。

天正18年(1590)
堀 秀政は小田原攻めに参陣するが、疫病を患い陣中で急死(38才)する。
堀秀治(堀 秀政嫡男)が跡を継ぐ。

慶長3年(1598)
堀秀治(堀 秀政嫡男)は越後春日山城(30万石)に転封する。

慶長5年(1600)
結城秀康(徳川家康次男)は越前67万石の大名として入城するが、福井城を築城し、北の庄城は廃城になる。
結城氏を松平氏に改め越前松平家は徳川御家門筆頭として明治まで続く。

城は現在の柴田神社境内が本丸天守跡と言われ、柴田勝家とお市の方の銅像が建てられている。
■府中三人衆
天正3年(1575)柴田勝家は与力として前田利家(越前府中城)・佐々成政(越前小丸城)・不破光治(龍門寺城)の三人を越前府中に置いた事から府中三人衆と呼ばれた。

■天正11年(1583)賤ヶ岳の合戦
本能寺の変後に
羽柴秀吉長浜城姫路城
【丹羽長秀(大溝城)・堀秀政(佐和山城)・中川清秀・藤堂高虎・高山右近(高槻城)・桑山重晴】
柴田勝家(北の庄城)
【佐久間盛政(金沢城)・滝川一益(伊勢長島城)・佐々成政(富山城)・前田利家(七尾城)・不破光治(龍門寺城)・金森長近(越前大野城)】

故織田信長の重臣が2派に別れて賤ヶ岳で戦い、前田利家・不破光治・金森長近が戦線より離脱して羽柴秀吉軍が勝利する。

■信長死後の丹羽長秀は羽柴秀吉の後ろ盾になっていたが、柴田勝家死後は家臣として扱われる。
■信長の重臣(柴田勝家→丹羽長重→堀 秀政)は北の庄城主になっている。

県外の城跡目次に戻る 福井県