長州藩 毛利家

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毛利家(9家)と重臣(20家)

毛利元就 毛利隆元 毛利輝元
長府毛利 徳山毛利 清末毛利 大野毛利
右田毛利 厚狭毛利 吉敷毛利 阿川毛利

吉川元春 小早川隆景 宍戸隆家 熊谷信直
福原貞俊 志道広良 口羽通良 桂元澄
渡辺通 渡辺長 児玉就忠 赤川元保
国司元相 粟屋元秀 粟屋元親 粟屋元真
飯田元親 井上元兼 天野隆重 吉見正頼


■安芸一国の支配

★明応6年(1497)安芸の国人領主・毛利弘元と正室の福原氏(福原広俊の娘)との間に次男(元就)として誕生。幼名は松寿丸。

★明応9年(1500)幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意した。
嫡男の毛利興元に家督を譲ると、松寿丸は父に連れられて、支城の多治比猿掛城に移り住む。元就3才。

★翌永正13年(1516)長兄・興元が急死した。死因は酒毒であった。
家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。

★詳細な時期は不明であるが、この頃に吉川国経の娘「妙玖」を妻に迎える。
大永3年(1523)長男の隆元(宗家2代)が生まれる。元就27才。

★大永3年(1523)毛利家当主の幸松丸はわずか9歳で死去し、元就は家督相続して本城の吉田郡山城に入城する。

★元就は執政・志道広良らの支援を得て相合元綱(元就の弟)一派を粛清する。



★享禄2年(1529)尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋氏一族(長兄・興元の室の実家)を討伐。
高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れる。

★天文4年(1535)元就は長年の宿敵であった宍戸家には隆家(宍戸家嫡男)に娘(五龍)を嫁がせて友好関係を築き上げ、宍戸氏、天野氏、熊谷氏などの安芸国人の盟主としての地位を確保する。元就38才。

★天文6年(1537)長男の隆元(宗家2代)を人質として、大内氏へ差し出して関係を強化した。
天文9年(1540)隆元は大内義隆から吉田郡山城に戻ることが許され、内藤興盛(大内義隆の重臣)の娘を室にする。

★天文13年(1544)元就は強力な水軍をかかえる竹原小早川(分家)の養子に3男徳寿丸(後の小早川隆景)を出す。
竹原小早川家(13代当主興景)に元就の姪(兄・興元の娘)が嫁いでいる。

盲目の沼田小早川(本家)の当主・小早川繁平を出家に追い込み念願の小早川水軍を手に入れる。

★天文15年(1546)元就が隠居を表明。隆元が毛利家2代当主となる。元就49才。



★天文16年(1547)妻・妙玖の実家である吉川家へ養子として元春(元就2男)を送り込む。
吉川家相続前に元春は熊谷信直の娘と結婚する。

天文22年(1553)吉川家相続の後も吉田郡山城におり、嫡男の元長(吉川2代)が生まれる。
天文22年(1553)毛利隆元の嫡男輝元(宗家3代)は毛利元就の嫡孫として生まれる。元就56才。

★安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。


■中国路8ヶ国を支配

★弘治元年(1555)厳島の戦い。
陶晴賢(大内氏執政)は大軍(30,000人以上)を率いて厳島に上陸した。毛利軍の兵力は4,000から5,000人。
しかし厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利方についたこともあり、陶晴賢は自刃。大内氏は衰退する。元就58才

★永禄6年(1563)隆元(40才)が急死したため、輝元(10才)は若くして毛利氏の家督を継承する。元就66才。
永禄8年(1565)4月に月山富田城を包囲して兵糧攻めにする。
永禄9年(1566)11月籠城している尼子義久は降伏して戦国大名としての尼子氏は滅亡する。
月山富田城には吉川元春(元就次男)が入り、出雲国・隠岐国・伯耆西部を治める。

★永禄10年(1567)に最後の息子である9男の秀包(小早川2代当主)が誕生している。元就70才。

★毛利氏は長門国、周防国、安芸国、石見国、出雲国、備後国、隠岐国7ヶ国に加え、備中・伯耆両国のそれぞれ西部を領有する。

こうして元就は一代にして、毛利氏を中国路8ヶ国を支配し、所領の総石高は120万余石大名へと成長させた。元就70才。

★元亀2年(1571年)毛利元就は吉田郡山城で、死去する。享年75。




■関ケ原敗戦後の毛利家

★慶長5年(1600)西軍の総大将の輝元は東軍の徳川家康関ヶ原で敗北する。輝元47才。
改易は免れたものの、祖父以来の領地(120万余石)の多くを削られ、周防・長門の2か国(29万8千石)を領するのみとなった。

徳川体制で長州藩は周防の萩藩(宗家)と長門の長府藩(支家)と岩国の吉川領(岩国藩)になる。

★元和9年(1623)輝元は正式に秀就(宗家4代)へ家督を譲渡し、60年にわたる治世を終えた。輝元70才。


■萩宗藩(周防国) ■長府支藩(長門国)

■萩宗藩(周防国)

★慶長5年(1600)関ヶ原合戦後は西軍の総大将の輝元が隠居することにより、秀就(宗家4代)が周防・長門2ヶ国の長州藩(120万余石→29万8千石)を安堵される形で決着し、毛利氏の改易は避けられた。

★長州藩とは萩宗藩・長府支藩・吉川藩・徳山支藩・清末支藩を合わせたものを言う。

★慶長9年(1604)秀就(宗家4代)は周防の萩を本拠地に定め、萩城を築城する。
萩城は広島城に匹敵するほどの大規模な城郭となった。

■長府支藩(長門国)

★天正7年(1579)11月7日、長府支藩祖の秀元(甲斐守)は穂井田元清(元就4男)の次男として猿掛城にて生まれる。
豊臣秀長の娘を室に迎える。

★慶長4年(1599)大名として別家(長府支藩)を創設し、長門国・周防国吉敷郡、合計約18万石を分知。
秀元は周防国の山口を本拠地に定め、高嶺城があまりにも急峻であることから長山城の築城を始める。

★慶長5年(1600)の関ヶ原の敗北後は18万石から5万石になる。

★東京六本木の毛利庭園は長府支藩の上屋敷の庭園だった。
慶安3年(1650)毛利元就の孫、秀元(甲斐守)が、現在の六本木ヒルズがある場所へ「長府藩毛利家の上屋敷」を設ける。
元禄15年(1702)に上屋敷は赤穂事件を起こした10名が切腹した屋敷としても名を残している。




■吉川家(岩国藩) ■小早川家(改易)

■吉川家(周防国)

★元春は安芸国大朝の小倉山城に入ったが、より要害の地である日野山城(広島県北広島町)を築く。
★天文17年(1548)元長は吉川元春の嫡男として生まれる。

★天正10年(1582)本能寺の変を契機として羽柴秀吉と毛利氏が和睦すると、輝元・小早川隆景と元春の間に差が生じたため、元春は隠居し、元長(吉川2代)が家督を継いだ。
★天正15年(1587)弟(広家)と共に豊臣秀長の朝鮮征伐軍に合流した後、日向国で病に倒れる。
最期を悟った元長は弟の広家(吉川3代)を後継に指名し、輝元と隆景も同意する。

★慶長5年(1600)関ケ原敗戦後に周防・長門への減封を受諾した毛利氏は、長門国の萩に本拠を置いた。

★広家は豊臣時代には出雲国富田で14万石を領していたが、輝元(宗家3代)は吉川広家に本拠地萩から遠くの東の守り、本家及び直系一門の盾の位置となる岩国3万石〜6万石の所領を与える。
広家(吉川家3代)は吉川領の初代領主(岩国藩)となる。

★慶長6年(1601年)広家が、岩国赴任と同時に岩国城の築城が開始された。

★余談
歌手の吉川晃司(広島県安芸郡府中町出身)は吉川家の子孫と言われている。

■小早川家(改易)

★天正14年(1586)豊臣秀吉の九州征伐に従軍し、戦功として筑前一国と筑後、肥前の一部を加増され、五十二万石余の大名となった。
このとき筑前国名島へ居城を移したが、三原城(広島県三原市)も維持する。
隆景には実子がなかったため、毛利元就の9男秀包を養子に迎えた。

★文禄3年(1594)に秀吉の養子である木下秀俊(小早川秀秋)を養子に迎え、秀包は廃嫡となる。
小早川秀秋は小早川領の筑前(30万7千石)を相続する形で、九州に下り筑前国(名島城)国主となった。
廃嫡となった小早川秀包も別家を興すことを許され、吉敷毛利家の始祖となった。

★文禄4年(1595)秀秋に家督を譲って小早川隆景は三原城に隠棲した。
このとき旧小早川家臣団の大半は備後国三原へ引き上げている。

★慶長2年(1597)隆景が没すると備後国三原(小早川領)は毛利領となり、小早川家は改易となる。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の後の備後国三原(小早川領)は安芸国広島に入封した福島正則(徳川家臣)の所領となる。


■徳山分藩(萩宗家系) ■清末分藩(長府支家系)

■徳山分藩(萩宗家系) 

★元和3年(1617)萩藩(宗家)は輝元(宗家3代)の次男(就隆)に3万石を分知し徳山藩(下松藩)分藩する。
寛永2年(1625)藩内検地では、実質的な石高は4万石余りであったといわれている。

清末分藩(長府支家系)

★承応2年(1653)長府藩(支家)は綱元(長府支家3代)の時に叔父の元知(長府支家初代の3男)に1万石を分知し、清末分藩する。


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