加賀前田家 | 加賀藩の石高 | 加賀八家 | 大名の家格 |
加賀本藩系図 | 七日市支藩系図 | 富山支藩系図 | 大聖寺支藩系図 |
加賀藩の城代 | 前田慶次郎 | 高山右近 | 年号表 |
加賀前田家 |
前田利昌 | 父親 | 尾張荒子城主 |
前田利久 | 長男 | 後の金沢城代 |
前田利玄 | 次男 | 能登で没したという記録が残る。 |
前田安勝 | 三男 | 後の七尾城代 |
前田利家 | 四男 | 後の金沢城主 |
前田(佐脇)良之 | 五男 | 家康の家臣になり、三方ヶ原の戦で討死する。 |
前田秀継 | 六男 | 後の木舟城主 |
加賀本藩 |
■加賀藩本藩は前田利家(開祖)から14代前田慶寧まで続く。 ■江戸時代の元和元年(1615)一藩一城になったが、加賀藩は特例で、金沢城と小松城の2つがある。 |
加賀支藩 |
■七日市支藩(1万石) 慶長20年(1615)初代藩主は前田氏孝(利家の5男)で、12代前田利昭まで続く。 前田氏孝は前田利常の一歳違いの弟になり、慶長9年(1604)江戸に前田家の人質として送られ、同じように慶長5年(1600)人質として江戸にいた芳春院(まつ・利家の妻)に育てらる。 慶長19年〜慶長20年(1614〜1615)大坂の陣では秀忠に味方し、その功績で群馬上野七日市で、1万石の大名に取り立てられ陣屋を構え家臣は加賀本藩から行っている。本多康俊の娘を妻にしている。 ■富山支藩(10万石) 寛永16年(1640)初代藩主は前田利常(加賀本藩3代藩主)の次男前田利次がなり、13代前田利同まで続く。 ■大聖寺支藩(7万石→10万石) 寛永16年(1640)初代藩主は前田利常(加賀本藩3代藩主)の三男前田利治がなり、14代前田利鬯まで続く。 九代藩主前田利之は江戸城中での帝鑑間詰(7万石以下)(大名の家格)は参勤交代の帰国の際に上使の挨拶を派遣されないため、加賀本藩から新田・越前嶺北の一部・蔵米など3万石を加増されて10万石になり、大広間詰(10万石以上)に格上げになる。 |
野田山墓地 |
■天正15年(1587) 前田利家の兄利久(金沢城代)をここに葬ったのが墓地の始まりで、前田家歴代藩主・正室・前田家一族は野田山頂上に墓が造られ、野田山頂上下方には家臣たちの墓が造られる。 後に市民の墓など造られ、墓地園(金沢市管理)として整備される。 ■前田利家の兄利久の墓は利昌(利家の実父)の嫡男としての尊敬から利家の墓より一段上に造る。 ■前田利家の兄安勝(七尾城代)は文禄3年(1594)に没する。 |