前田慶次郎
加賀前田家 加賀藩の石高 加賀八家 大名の家格
加賀本藩系図 七日市支藩系図 富山支藩系図 大聖寺支藩系図
加賀藩の城代 前田慶次郎 高山右近 年号表

慶次郎(利益)の
実父滝川益氏(伊勢峰城代)は
滝川一益(伊勢長島城主)の
弟になる。

実母が前田利久の妻になり
慶次郎は利久の養子となる。
前田慶次郎になる。

後に
前田安勝(七尾城代)の
娘を妻にする。

子供は1男(正虎)3女〜5女?

前田家系図 滝川家系図

*前田家に伝わる文書(末森記)によると、前田家の侍大将前田慶次郎(前田利家の義理の甥)は、かぶき者として天下に知れわたり、人気コミック『花の慶次』の主人公になっている。

*実父滝川益氏(伊勢峰城代)は滝川一益(伊勢長島城)の従兄弟と言う説があるが、弟の方が正しいのでは?

*実父滝川益氏は滝川一益の甥と言う説もある?

*実父滝川益氏の晩年は不明だが、100才を超える年齢で死去した(1635年)とか?

■前田慶次郎の出生は天文2年(1533)で、実父(益氏)は滝川一益(織田信長の家臣)の弟になる。滝川一益は前田慶次郎の叔父になる。

■慶次郎の母が前田利家の兄前田利久(尾張荒子城主・金沢城)と結婚し、前田利久の養子となる。
前田利家(金沢城)は前田慶次郎の義叔父になる。

■永禄12年(1567)
養父利久と共に織田信長の家臣となっていたが、養父利久が信長によって追放され慶次郎も放浪の旅に出る。

■天正年10年(1582)
義父利久と共に義叔父である前田利家の元に身を寄せ7千石(利久2千石・慶次郎5千石)を与えられ、七尾城代の前田安勝(前田利家の兄)の娘と結婚している。

■慶次郎の子供は1男3女〜5女?

*嫡子正虎(安太夫)は前田利常(加賀本藩3代藩主・加賀本藩系図)に仕えた。

*長女(花)は有賀左京→山本弥右衛門(大聖寺藩士)の室

*次女(?)は北条庄三郎(武蔵鉢形城主 北条氏邦の4男・養子)の室
「武蔵鉢形城主北条安房守氏邦(北条3代目北条氏康の4男)は小田原攻めで前田利家に降伏 開城して前田家の預りの身となり能登で生涯を閉じる」

*3女(?)は戸田方経(富山藩士)の室

■天正12年(1584)
末森の合戦 (末森城)に参戦する。

■天正13年(1585)
阿尾城に任命され、阿尾合戦(阿尾城)に勝利している。

■天正の末期
義父利久(金沢城)の死後 慶次郎は義叔父の利家(加賀藩主)を水風呂に入れ前田家を出奔する。
しばらく京都に居た頃かぶき者として知れわたる。

*金沢市野田山墓地に利久の墓があり、利家は利昌(利家の実父・加賀前田家)の嫡男としての尊敬から利家の墓より一段上に造る。

■慶長3年(1598)
上杉家家老の直江兼続(与板城)の勧めで、禄高1千石で上杉景勝(春日山城)の家臣となる
直江兼続は30万石の大名家老

■慶長3年(1598)
領地替で、上杉景勝(春日山城)は越後(250万石)から会津若松城(120万石)移る。
出羽米沢城には上杉家の家老直江兼続(与板城)が入城する。

■慶長5年(1600)
関ヶ原の戦い後に上杉景勝は30万石に減封され会津若松城(120万石)から出羽米沢城(30万石→15万石)に移る。
慶次郎は数多の仕官を退け、上杉景勝を追って出羽米沢(慶次郎の禄高は、1千石→300石)に移り住む。

■余談
コミック花の慶次郎では『名馬松風と共にいくつもの合戦に参加する。
慶長5年(1600)長谷堂の戦いでは朱色の槍を振り回し活躍する』と書いてある。
関が原の戦いなどでは上杉景勝の下で西軍の北陸前線を支え最上氏・伊達氏を相手にして戦う。

■慶長10年(1605)
慶次郎は米沢を離れ前田利政(利家次男・小丸山城主加賀本藩系図)の勧めで大和刈布に住む

■慶長10年(1605)11月9日
73才大和刈布で没し、刈布安楽寺に葬られたとか?
慶長17年(1612)6月4日
70才米沢で没し、米沢一花院に葬られたとか?言われているが?


【滝川一益について】

滝川一益は織田信長(安土城)の家臣
永禄12年(1569) 尾張蟹江城主になる。
天正2年(1574)9月 伊勢長島城主(北伊勢5郡領主)になる。
天正10年(1582)佐久・小県(信濃国)2郡と上野(群馬県)1国を与えられ関東管領に任命される。
天正11年(1583)6月 賤ヶ岳の戦いで敗れ、豊臣秀吉(姫路城)の家臣となる。
天正12年(1584)6月 小牧・長久手の戦いで敗れ 越前大野に隠棲させられる。
天正14年(1586) 越前大野 62才で没する。


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