武家の豆知識(余談)

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大名の家格 豆知識(余談) 長州藩毛利家


■徒士侍(かちさむらい)は、徒歩で戦う士分格を持つ武士を指す。
騎乗身分ではない。
徒士は士分に含まれるので、士分格を持たない足軽とは峻別される。
近代軍制でいうと、下士官に相当し、兵ではない。
徒士侍は幕府や藩から組屋敷に屋敷と敷地を与えられた。
俸禄は70俵5人扶持。
70俵5人扶持は約78石になり、金額にすると1石=7万5,000円で、年585万円になり、1カ月48万7,500円になる。

■足軽は戦国時代は軽装歩兵とも呼ばれ、江戸時代になると同心・御家人と呼ばれ、武家社会では、下位武士になり、各所の番人や各種の雑用など下級事務に用いられた。
足軽は幕府や藩から組屋敷に屋敷と敷地を与えられた。

足軽の俸禄は年20俵〜40俵で、一代限りの身分ではあるが、世襲は可能であり、その権利が「株」として売買され、富裕な農民・商人の次男・3男の就職口になった。
平均の30俵(15石)を金額にすると1石=7万5,000円で、年112万5,000円になり、1カ月9万3,750円になる。

■若党の俸給は年に3両1人分程度で、「サンピン侍」や「若党侍」とも呼ばれた。
士分ではなく大小を差し羽織袴を着用して主人の身辺に付き添って雑務や警護を務めるが、身分は足軽以下とも言われた。
3両1分を金額(1両は約13万円・1分は約3万2,500)にすると年42万2,500円になり、1カ月3万5,208円になる。

■中間(ちゅうげん)の俸給の上限は年に2両2分と決められいるため、独身の者が多かったが、有能な者を若党侍に取り立て、武士身分とする事もあった。
脇差1つを挿し、時には戦いにも参加し、平時は雑用を行った。
2両2分を金額(1両は約13万円・1分は約3万2,500)にすると年32万5,000円になり、1カ月2万7,083円になる。
江戸中期になると藩は財政難になり、臨時雇いの渡り中間が出て来る。

■小者(下男)は私的武家奉公人になり、住み込みで主に雑用を行った。
3食室付きで、年に2回僅かな給金もらう。


■町奉行所は小者に正式に十手、捕縄を授ける・・岡っ引と呼ばれる。
奉行所から僅かな給金も出ていて、岡っ引は下っ引きを配下とする事から親分さんと呼ばれる。

定町廻り同心(15人)が私的に雇う岡っ引は専業として生計を立てた事例はなく、
女房に小間物屋や汁粉屋をやらせるなど家業を持った。

親分と呼ばれる地域の顔役が岡っ引になることが多く、本業と兼ねる「二足のわらじ」の語源になった。
奉行所の威光を笠に着て威張る者や、恐喝まがいの行為で、金を強請る者も多く、たびたび岡っ引の使用を禁止する御触れが出た。

■町奉行所(八丁堀)同心の俸禄は30俵二人扶持(ににんぶち)支給される。
30俵二人扶持は約35石になり、金額にすると1石7万5,000円で、年240万円になり、1カ月20万円になる。
江戸時代に足軽階級(御家人)の者が同心になった。
同心100人のうち定町廻り同心15人は決まった町や自身番(交番のような物)を巡回する。

町奉行所の与力(25人・禄高は平均200石)は冠木門の屋敷と敷地約300〜500坪、同心(100人)は屋敷と約100坪程度の敷地を与えられた。
与力は現在の警視庁で、事件を指揮する管理官のようなものになる。

内与力は町奉行所に仕えるのではなく奉行個人の家臣(陪臣)で、私設秘書の役目をしていて、騎馬与力は2人と側用人・留守居・使番など事務方3人で、内与力は計5人と決められていた。
内与力の俸禄は幕府からもらっている。
奉行が職を辞する時は、内与力も奉行所から退く。

■大岡忠相(初代藩主)の三河西大平藩(現在の愛知県岡崎市大平町)は禄高1万石、藩庁は陣屋。
大岡忠相(1,920石)は寄合(無役)→書院番→仮奉行→徒頭→使頭→目付→伊勢山田奉行(能登守)→普請奉行→江戸南町奉行(40才・越前守・1,920石+加増2,000石+手当3,000石)→60才・寺社奉行・奏者番(3,920石+加増2,000+手当4,080石)→西大平藩藩主(5,980石+加増4,080石→1万石)になる。

南町奉行職になると禄高の他に役職手当が3,000石あたる。
奏者番とは城中における武家の礼式を管理する役で、将軍との取次役(現在の社長秘書)となるため、大目付・目付と並ぶ役職(寺社奉行・奏者番は1万石以上の大名がなる)でもあった。
それまでの功績により、4,080石の加増を受け、西大平藩1万石の大名となる。
江戸時代を通じて、江戸町奉行(20年間の町奉行職)から大名になったのは大岡忠相のみです。
藩主(大岡忠相)は江戸に居住し参勤交代をしない定府大名になる。

上屋敷は日比谷公園の南側の東京メトロ霞ケ関駅前の弁護士会館のあたりに、晩年(西大平藩主時代)に住んだ。
下屋敷は港区元赤坂1丁目にあり、南町奉行は千代田区有楽町にあった。

現在は案内板が立つのみですが、付近には、まるで忠相の遺徳を慕うかのように、裁判所・法務省など法務関係の建物が並んでいます。

1万石(大名)を金額計算にすると年 7億5,000万になり、月額 6千250万になる。
抱える家来は120名〜150名で、中間や小者などは約100名となっている。
女中や下女の人数は?
南町奉行の与力(25人)・同心(100人)の手当は幕府が払っている。

■江戸北町奉行の遠山の金さん(遠山金四郎景元)の禄高は500石で、役職手当3,000石があたり、併せて3,500石になる。
遠山の金さん(500石)は江戸城西丸の小納戸(役料300俵)→西丸小納戸頭取格(大隅守)→小普請奉行(左衛門尉)→作事奉行→勘定奉行→江戸北町奉行(500石+手当3,000石)→大目付→小姓組番頭→江戸南町奉行(500石+手当3,000石)→旗本寄合(500石+加増2,500石)になる。
南と北の町奉行になったのは遠山の金さんだけ。
旗本寄合(無役)は禄高3,000石以上の旗本がなる。
天保改革で弾圧を受けた歌舞伎を浅草若町に再生したことは金四郎の尽力によると伝えられている。
北町奉行の与力(25人)・同心(100人)の手当は幕府が払っている。


■江戸には寺社奉行所・南町奉行所・北町奉行所の他に深川奉行所(1,660年〜1,719年)・中町奉行所(1,702年〜1,719年)があった。
テレビドラマの破れ奉行(深川奉行所)奉行の速水右近(萬屋錦之介)が
テレビドラマの江戸中町奉行所(中町奉行所)奉行の丹羽遠江守長守(丹波哲郎)が法で裁けない悪を闇で斬る創作ストーリー。
中町奉行の丹羽長守(遠江守)は実在の人物で、丹羽長秀(織田信長家臣・北の庄城主)の子孫で、二本松藩主(福島県二本松市)丹羽家の分家になる。

■火付盗賊改方頭は先手頭(先手弓頭、先手鉄砲頭→手当1,500石)の職務との兼役であるため任期は1年〜2年交代で、捜査権と検挙権はあるが、裁判権は無い。
火付盗賊改方は1862年兼役から専任になる。
与力・同心40人程と小者などの手当は自腹だったので、貧乏同心(強請・恐喝が横行)と言われ江戸町民から嫌われていた。

■有名な火付盗賊改方頭の長谷川平蔵の禄高は400石+先手組頭・火付盗賊改方頭の兼任手当は1,500石になる。
長谷川平蔵は実在の人物で、8年間の在職中に石川島の人足寄場を創設したり、多くの犯罪者を更生させたことは有名です。
地下鉄新宿線菊川駅の入り口に屋敷と敷地が(1,238坪)あった。平蔵の孫の代に屋敷替えがあり、北町奉行遠山の金さんの下屋敷になる。屋敷跡に史跡説明版と記念碑がある。

■先手組(さきてぐみ)は、江戸幕府の軍制の一つ。職制上は若年寄に属し、治安維持の役割を担った。
時代により組数に変動があり、一例として弓組約10組と筒組(鉄砲組)約20組の計30組で、各組には組頭1騎、与力が10騎、同心が30から50人程配置されていた。

火付盗賊改方より町奉行所の方が格上になります。


■テレビでお馴染みの暴れん坊将軍(松平健)、徳田新之助(め組の居候)の物語設定での独身は正解(^^)だが・・
第8代将軍に就任する一年前の正徳元年(1711年)に側室の須摩(深徳院)は家重(長男・第9代将軍)を産んでいる。

紀州藩主(5代)徳川吉宗の正室(二品貞致親王の王女真宮)は宝永7年(1710年)に死去。
正室死去2年後の正徳2年(1712年)第8代将軍に就任する。

■吉宗は治水や埋め立て、町場の整備の一環として飛鳥山や隅田川堤などに桜の植樹をした事でも知られ、花見(桜)や隅田川花火もこの頃から始まる。

大奥の整備(4,000人→1,300人まで減員)、大岡忠相(南町奉行)の助言で、江戸町火消し設置、目安箱の設置、小石川養生所を設置などの改革も行う。
飢饉の際に役立つ救荒作物としてサツマイモの栽培を全国に奨励した。
貴重品の砂糖は唐船(中国)やオランダ船から輸入されたが、日本でも生産できないかと考えサトウキビの栽培をして商品化に成功する。

■将軍として初めて「御庭番」を創設(17名)して諸藩や反逆者を取り締まる。
御庭番の前身は、紀州藩お抱えの薬込役(吉宗が使う鉄砲に火薬を込める役)と呼ばれる役人たちで、江戸城本丸の庭に設けられた御庭番所に詰め、奥向きの警備を職務とし、命を受けて情報収集を行っていたと言われる。
吉宗が御庭番を新設した理由としては、家康以来幕府に仕えてきた伊賀者や甲賀者が忍者としての機能を失い、間諜や監察能力が形骸化したためで、信頼できる将軍専属の隠密組織を必要とした。

徳田新之助を身辺警護する御庭番の薮田定八(宮内洋)は実在の人物で、他の御庭番名は創作。

■山田浅右衛門は第8代将軍吉宗の時の御様御用役(罪人の首切り役)。
幕府の役人で無く浪人の身分として・・仔細省略・・腰物奉行の支配下にあり、少額の手当を貰っていた。
テレビなどでは貧乏浪人役だが、実際は様々な収入源・・仔細省略・・があり、たいへん裕福で、3万石〜4万石の大名に匹敵するほどだった。
屋敷は千代田区平河町にあった。祥雲寺(有楽町線の要町駅近く)に浅右衛門の碑がある。
首切り役の山田家は元禄のころから明治14年まで、9代続いたようです。


時代劇ドラマで、よく出てくる悪役の役職の若年寄、大目付、大番頭とは

■若年寄(役高1,000石)4名
全国支配の担当である老中に対し、旗本や御家人の支配を軸とする将軍家の家政を担当した。
若年寄は通常4名を定員とし、小禄の譜代大名から選任された。
配下に徒目付、小人目付が置かれ、旗本、御家人の監視や諸役人の勤怠など政務全般を監察した。
老中格・老中・御側御用人などに出世するための経験を積むことができる役職として羨望された。

■大目付(役高1万石)4名
大名・高家および朝廷を監視して、これらの謀反から幕府を守る監察官の役割を持った
旗本の中から選任され、旗本の役職の中でも御側衆・御留守居・大番頭に準ずる高位とされた。
柳生宗矩などの4名が任じられたのが、はじまりで、設置当初は惣目付と称した
旗本でありながら万石級(大名)を監視することから、その在任中は大名同等に万石級の禄高を与えられ、「○○守」の官位が叙任された。

■目付・目付役(役高1,000石)10名
江戸幕府および諸藩における職名で、ある人物が不行をしないよう見張る側近のこと。定員は10名。
江戸幕府は若年寄の目耳になって旗本・御家人を、諸藩の場合は藩士(主に馬廻格以上)を監察する役職。

■大番頭(役高5,000石)6名〜12名
旗本の役職の中で最高の格式を誇った。
主に江戸幕府での警備(大番)の指揮官。
当初は6名、その後の幕府制度の整備にともない、老中支配として12名となる。
平時は江戸城・大坂城の警備、二条城における二条在番を務める。
5,000石以上の旗本または、1万石クラスの譜代大名から複数が任じられた。
大番頭は警備隊長・一指揮官にすぎないが、江戸町奉行や大目付といった役職より格上であった。
番方(武官)の最高位にあたり、側衆(役高5,000石)・留守居(役高5,000石)と並んで、旗本の役職の中で最高の格式を誇った
大番頭配下の中間管理職は大番組頭 (役高600石)と呼ばれた。

■小姓組番頭(役高4,000石)6名
将軍の居室をはじめとする城中の警備責任者。6名を番頭(ばんがしら)とした。
同様の組織として五番方(小姓組、書院番、新番、大番、小十人組)があり、小姓組はその中でも両番(小姓組、書院番)に含まれている。
一般的にイメージされる「小姓」とは異なり、純然たる戦闘部隊である。
設立初期は勤番所の前に花畑があったことから花畑番と呼ばれた。

■書院番頭(役高4,000石)6名
将軍の身辺警護の責任者。


■江戸時代中期(第五代将軍徳川綱吉)の赤穂藩(6万石)松の廊下刃傷事件のとき、浅野家の城代家老(筆頭家老)大石内蔵助の禄高は1,500石だった。
兵庫県赤穂市に大石内蔵助以下四十七士を主神とする大石神社がある。
吉良家(4,200石)は養子の義周(出羽国米沢藩4代藩主、上杉綱憲の次男)が継いだが、改易となった。

■東京六本木の毛利庭園は長府支藩の上屋敷の庭園だった。
慶安3年(1650)毛利元就の孫、秀元(甲斐守)が、現在の六本木ヒルズがある場所へ「長府藩毛利家の上屋敷」を設ける。
元禄15年(1702)に上屋敷は赤穂事件を起こした10名が切腹した屋敷としても名を残している。

■神田神保町は神保屋敷(旗本・増山城)があった事から神保町となる。
神田神保町は皇居の北側(平川門)に位置し、学校・予備校などが多い。
教員だった岩波茂雄が、大正2年2月に起きた「神田の大火災」の焼け跡の神保町に古書店を開き、大成功を収める。
これが岩波書店の起こりで、岩波の成功により教養人・大学生が神保町に足を運ぶようになったため、一誠堂古書店、東京堂等の店舗新設する。
また読書の場を提供するカフェを開業する者が相次いだ。

■神田町駿河台に時代劇でお馴染み天下のご意見番大久保彦左衛門の上屋敷があり、晩年は港区白金台の下屋敷(1万2,000坪)に住んだ。
下屋敷跡は料亭壺中庵から現在有名な八芳園(庭園結婚式場)になっている。

■大番組屋敷(旗本・守山城)があった事から番町となる。
江戸城牛込御門(現在のJR飯田橋駅前)内五番町一角の四谷怪談のお菊で、有名な
番町皿屋敷(火付盗賊改・青山播磨守主膳)は創作です。
番町伝通院に、この「菊」のモデルとされる女性の墓があったが、大正時代に伝通院近くの麹町栖岸院へ移転して墓は丁重に扱われている。

■キリシタン大名高山右近の墓地は羽咋郡志賀町末吉(末吉城)にあり、高山右近記念公園にブロンズ像がある。現在も町内に子孫が住んでいる。
七尾市本行寺境内(小丸山城)に高山右近像が建立され、右近古道や右近修道場跡があり、高岡古城公園(高岡城)にもブロンズ像がある。


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