加賀八家

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大名の家格 豆知識(余談) 長州藩毛利家


■貞享3年(1686)5代藩主綱紀(加賀本藩系図)の時に、藩の職制改革の時に定められ、1万1千石以上の家老(年寄役・人持組頭)で、八家が加賀八家と呼ばれ、世襲制に定められた。
■それぞれの禄高は時代によって多少の変動がある。

個人的解釈(年代的にややこしいので)により、前田利常(3代)の頃からの上席家老(1万1千石以上)を加賀八家の祖にしました。

■加賀藩には加賀八家と呼ばれる八家の大名家老(年寄役・人持組頭)がいる。

★本多宗家(筆頭家老) 5万石 ★村井家(松根城代 1万6千石
★長家(穴水城主 3万3千石 ★奥村宗家(末森城代 1万7千石
★横山宗家(富山城代 3万石 ★奥村支家(金沢城代 1万2千石
★前田家(長種系)(守山城代 1万8千石 ★前田家(直之系)(小松城代 1万1千石


■本多宗家(加賀本藩筆頭家老)5万石(出羽守)



★加賀藩筆頭家老の本多宗家(加賀八家)の祖、本多政重は徳川家康の重臣本多正信の二男で、上杉家の家老直江兼続(与板城)の娘婿になる。
★本多宗家の禄高は大名にも匹敵する五万石です。
★政重の5男(@政長)は加賀八家の祖になる。
★政重の娘(六)は前田孝貞(長種系八家3代)の室になる。
★@政長(八家祖)は前田利常(本藩3代)の6女春を室にする。
★@政長(八家祖)の5男政寛は3,000石で分家(主水家・人持組)する。
★A政敏(2代)は前田孝貞(長種系3代)の娘を室にする。
★D政行次男政房(政拳)は1,000石で分家(求馬佐家・人持組末席)する。

本多宗家の屋敷と敷地は(1万坪)あり、現在の本多の森公園(出羽町)になっている。
政長の4男政冬(支家・図書家)は1万石の加賀八家に準ずる四家大名家老(年寄役・人持組頭)になる。

加賀本多博物館】【本多の森公園】→他サイトリンク


■長家(穴水城主)3万3千石(大隅守・甲斐守)



★長連龍(長氏21代目当主長氏系図)は織田信長家臣で、天正6年(1578)菱脇の戦い(能登の合戦)で勝利し、後に利家(金沢城)の与力となり、加賀藩では独立的立場となる。
★連龍(長氏21代目当主)は神保氏張(守山城主)の妹を室にする。
★@好連(八家の祖)は利家の8女福と婚約するが、好連は早死する。
★A連頼(2代)は前田利常(加賀本藩3代)の娘を室にする。
★A連頼(2代)の時のお家騒動で、長家の知行地は加賀本藩管理となり、独立的立特権を喪失する。
C尚連(4代)の頃から加賀八家と呼ばれる。

長町に屋敷と敷地(1万坪)があった事から長町と名づけられたらしい。
長家屋敷跡は現在玉川公園となっています。

長氏系図(加賀八家)


■横山宗家(富山城代)(加賀本藩国家老)3万石(山城守)



★横山長隆は利家の越前府中時代に仕えたが、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いに出陣し殿軍を務めて戦死する。
★横山長隆の嫡男長秀は3,500石で分家(外記家・人持組)する。
★加賀八家横山家の祖は@長知(長隆の次男)になる。
★@長知の3男長治は禄高6,600石で、分家(神谷家・人持組)する。
★@長知の8男定治は禄高2,000石で、分家(中務家・人持組)する。
★A康玄(宗家2代)は高山右近(末吉城)の娘を妻にしていたが、慶長19年(1614)右近が国外追放の時に離縁して、今枝直恒(本家2代利長の家臣)の娘を継室にする。
★B忠次(宗家3代)は日置忠治(岡山藩家老)の養娘を室にする。

★横山邸(宗家12代隆平)別荘の跡は辻家庭園(石川県金沢市寺町)になっている。
横山町に屋敷と敷地(5,500坪)があった事から横山町と名づけられた。

長治の4男(@正房)は1万石の加賀八家に準ずる四家大名家老(年寄役・人持組頭)になる。


■前田家(長種系)(守山城代)1万8千石(対馬守)



★前田長種は尾張前田城主で織田信長の家臣で、前田利家の本家筋になるが、小牧長久手の戦で・・仔細省略・・後に前田利家の家臣になり、前田利家とまつの長女幸を室にする
★長種は前田利常(利家の4男・加賀本藩3代藩主)の幼少期に守山城で後見(教育係り)を務める。
★長種の次男長時は7,000石で分家(織江家・人持組)する。
★@直知(八家の祖)は前田利長の養女(牧村氏)を室にし、継室は前田利長の養女竹(長連龍の娘)を室にする。
★@直知(八家祖)の3男(直成)は分家する。
★@直知(八家祖)の4男(恒知)は3,400石で分家(将監家・人持組)する。
★A直正(2代)は安見元勝(本藩2代利長の家臣14,000石)の娘を室にする。
★B孝貞の次男孝和は3,000石で分家(内蔵助家・人持組)する。
★C孝行の8男孝覩が2,500石で分家(兵庫家・人持組)する。

大手町のKKRホテル付近に屋敷と敷地(7,600坪)があった。


■村井家(松根城代)1万6千石(豊後守)



★村井長頼は慶長5年(1600)人質となった芳春院(利家の妻・松)と供に江戸行き、慶長9年(1604)江戸に前田家の人質として送られた利家5男前田利孝(七日市支藩)の教育係りを務めるが、慶長10年(1605)10月江戸で没する。

★@長次(長頼の嫡男)は加賀八家村井家の祖になる。
★@長次(八家の祖)は利家の7女千代を妻にする
★@長次(八家の祖)と千代(利家とまつの7女千代)の間に子がなく、織田有楽斎(織田信長の弟)の4男(A長光)を養子にして村井家加賀八家2代目にする。
C親長(4代)の時に加賀八と呼ばれる。

尾山神社のバス停から西に下がったあたりに前田(直之系)屋敷の後ろあたりに屋敷と敷地(5,000坪)があった。


■奥村宗家末森城代)1万7千石(伊予守)

■奥村支家金沢城代)1万2千石(備後守)



宗家
★奥村(助右衛門)永富は前田利春→利久→利家に仕え荒子城代になっている。
★末森の合戦で末森城を死守する。
★利家が死去すると隠居して出家する。元和10年(1624)6月12日83才で没す。
★永富の兄が2,700石で分家(源左衛門家・人持組)する。
★@栄明(奥村永富の嫡男)は加賀八家奥村宗家の祖になる。
★@栄明は山崎(長門守)長徳(放生津城)の娘亀子を室にしている。
★@栄明は元和16年(1620年)5月21日53才で没す。

兼六園東にある金沢医療センターの付近から下石引町に移り、屋敷と敷地(1万坪)があった。

支家
★@奥村易英(奥村永富の次男)は分家して、加賀八家奥村支家の祖になる。
★@奥村易英は前田利久(金沢城代)の後を継いで金沢城代になり、横山長知(八家横山宗家の祖)の娘を室にしている。
★@奥村易英は慶長21年(1616)に家老になり、加賀前田家4代(利家・利長・利常・光高)に仕える。
★@奥村易英の2男易貞が1,700石で分家(弾正家・人持組)する。
★@奥村易英は和忠(易英嫡男)が早死にのため、孫のA庸礼に相続させる。
★@奥村易英は寛永20年(1643)12月21日没す。

旧材木町小学校付近に屋敷と敷地(2,400坪)があった。


■前田家(直之系)(小松城代)1万1千石(土佐の守)



★前田利政(利家次男)の嫡男直之は利常の家臣(2,000石)となり、加賀前田(直之系)の祖になる。
★直之は芳春院(前田利家の室まつ・今津城)の死後7,500石(化粧料)を継ぎ、その後500石加増されて1万石の禄高となる。
★@直之は加賀八家前田(直之系)の祖になる。
★@直之の娘の子(季明)は前田姓に改名して、2,450石で分家(主殿家・人持組)する。
A直作(2代)の頃から加賀八家と呼ばれ筆頭家老になった。

尾山神社のバス停から西に下がった付近に屋敷と敷地(約3,000坪)があったた。

加賀前田家系図 前田土佐守家資料館→外部リンク


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